ホーム | 日系社会ニュース | 85歳女性=元ドミニカ移民の手記――日本出て50年、今イタクァで自適(下)=配分の3町歩は痩せ地=3年働けど増えた赤字

85歳女性=元ドミニカ移民の手記――日本出て50年、今イタクァで自適(下)=配分の3町歩は痩せ地=3年働けど増えた赤字

2007年5月31日付け

 第一次で入植した方たちも、約束の十八町歩はないが、開墾ずみの土地を配分されたようでした。コロニアの近くで土地も肥えているのです。私どもと同じ三町歩(五十タレッファ)の土地ではありますが、水の便利も良いようでした。
 第二次で入植した私どもは、同じ三町歩でも痩せ地なのと、コロニアから三キロも離れているのでした。新天地に希望を燃やして仕事に取り組んだが、配分地に通うのに乗り物もないので、毎日歩いて、照りつける太陽の下で真っ黒になって働き続けました。
 石の上にも三年という諺があるように、黙々と働き続けましたが、入植して三年以上過ぎても生活は安定せず、働けど働けど赤字は増えて行くばかりでした。
 一九六一年五月三十日、トルヒーリョ元帥がホアン・トマス前将軍の一味によって暗殺されました。トルヒーリョ独裁政権のときは、日本人のことは目に留めていてくれたのですが、暗殺されてからは事情がかわりました。毎日が戦々恐々で、移住者の中から「帰国運動をする」と言って、領事館に交渉に行く人も多くなりました。
 また、他国に移動させてくれと言っている人たちも多く、毎日が仕事も手につかない状態でした。移住者が動揺しているので、現地人までが、自分の土地を取り上げようと騒ぎだしたのです。
 それからというものは、個人で領事館に行って、国援法で帰国させてくれと交渉した人たちが、帰国するようになりました。私たちも動揺しました。でも落伍者になって国援法では帰国したくないので、現地人の土地を借りて仕事をしたのです。
 国援法でなく、金を儲けて自費で帰れるようにと祈りながら辛抱してきましたが、二年に一度の旱魃です。自分のところは水田なので、水の心配が絶えません。夜は水引きに毎晩主人と交代で、三キロ離れている水田まで通い続ける、夜は現地人も水田に水引きにくるので、しょっちゅう喧嘩となる、どうしても現地人の方が優先的になるので、ドミニカ政府に交渉して水門を作ってもらっても、やはり現地人がずうずうしいので、喧嘩が絶えないのです。
 日本人たちは困りました。日本政府に交渉しても何の効果もありません。トルヒーリョ元帥が暗殺されてからは、水引きに行っては現地人にスコップで頭を殴られたり、いろいろな面において迫害を受けるようになってしまいました。ドミニカ国のダハボン地区では農業ができなくなったのです。
 再度、日本政府と交渉したら、海協連から連絡があって、日本政府の予算が無いので国援法は適用することはできないが、国外転住ならできるという通知を受けて茫然としてしまいました。
 将来性の無いドミニカ国では、これ以上良くなる可能性はないので、私どもは先が真っ暗になり、毎日不安定な日々が続きました。
 その後、領事館の役人が一軒一軒訪問して、どこの国に再移住するかと尋ねました。私どもはどこの国がいいか分からないのだと話したら、ブラジルのことを説明したので、決心がついて、希望を持って新しい国に行くことにしました。
 六年と三ヵ月も頑張り通してきたドミニカをすっかりあきらめて、新天地ブラジルへと転住する決心もついて、それからは準備に追われました。
 いよいよブラジルに出発する日がきました。朝早くコロニアに残る人たちに見送られ、ダハボンを出発、車はサント・ドミンゴへと走りました。
 次の日は、朝から港に行き船の着くのを待ちました。ようやく午前十一時頃「さんとす丸」が着岸しました。上陸する人、乗船する人の波も静まって、今度は私どもが乗船して、午後五時に出航しました。ドミニカから一週間の船旅で、憧れのブラジルに着いたのです。
 一九六三年三月二十八日午前八時頃、サントス港に着岸しました。この日が、私どものブラジルでの第一歩のはじまりでした。
 タピライのお茶の植えつけのはじまる耕地に入ってみましたが、子供の学校のことが心配で、そこから早く抜け出して、サンパウロに出ました。イタケーラの谷口清さんの養鶏場で歩合をして儲けさせてもらってから、土地を探すために村中武さんの兄さんの土地に入って桃の歩合をさせてもらいました。現在の土地を探し求めて、村中さんにいろいろとお世話になって、現在にたどりついたのです。
 ここまでたどりつくまでには並大抵の苦労ではありませんでした。簡単に書きましたが、毎日が死活のかかった日々でした。金も無ければ、知恵も無い、無学な者なので無我夢中で働き続けたのでした。
  (おわり 八巻たつ)

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