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ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組=新社会の建設=創設者の光と影=下元健吉没後50周年=連載《第2回》=コチアという新社会建設=本来なら昭和史上の大事業

プレ百周年特別企画

2007年9月27日付け

ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組
新社会の建設=創立者の光と影=下元健吉没後50周年
連載《第2回》=コチアという新社会建設=本来なら昭和史上の大事業
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)

 先に、下元健吉を「傑物」と表現したが、この場合の傑物とは偉人のことではなく「凡人には成しがたい事業をやってのける人物」の意である。
 下元は、一九二七年、二十九歳の時に、コチア産業組合を同志と共に創立、以後、一九五七年に急逝するまで三十年間、戦前・戦中・戦後、その経営の采配を振るい、時には独裁し、死後も長く……三十数年に渡って、コチアが解散するまで、後継者に影響を与え続けた。
 (在職中、下元の役職名は──創立時と戦時中を除き──専務理事であり、形式的にはその上に理事長がいた。が、経営の実権は戦時中を含め殆ど下元が握っていた)
 コチアは法的には組合であったが、下元はその枠を越えて、組合を核に組合員、その家族、職員から成る一個の新社会を建設しようとした。建設のために生涯を燃焼させた。
 彼の構想は、その社会に必要な経済活動から保健、娯楽、教育、文化……すべの事業を組合が組合の力で実現・統括するというもので、壮大な内容であった。(ただし排他的、閉鎖的なものではなかった)
 構想実現のため──彼を側近くで見続けた一職員が書き残した資料によれば──死に物狂いで働き続けた、という。新社会建設の夢は、ほぼ成功裡に進展した……と見てよかろう。
 組合員とその家族の多くは、「コチア人」意識を持ち、生産活動に限らず日常生活の少なからぬ部分をコチアとの関係の下に過ごしていた。それは組合職員も同様であった。
 コチアの組合員と家族、職員は一九五七年の下元没時、四万人と概算された。その総てが前記の様な「コチア人」意識を持ったわけではない。持った場合も、その度合に強弱の差はあったし、常に、去る者、来る者……と組合員や職員の出入りはあった。
 しかし、コチアという一個の社会と「コチア人」と称すべきその構成者が存在したことは確かである。
 日本民族の海外発展史上、この種の話は、ほかにはない。戦前、日本の若者の多くは、「狭い日本を飛び出して何処か広大な地に、自分たちの、自分たちが支配する〃王国〃(この場合は理想社会ていどの意味)を建設したい」と夢見ていた。それが歴史を動かす一因にすらなった。
 その夢を、往時風に表現すれば、一八九七年、明治三十年、四国の山村に生まれ小学校を出ただけの十五歳の少年が、遠く万里の波濤を越えて異郷に至り、徒手空拳、成し遂げたのである。
 コチアの創立は、日本の年号で言えば昭和二年にあたり、昭和史の一面を象徴する大事業であった。が、筆者の知る限りでは、日本の如何なる昭和史資料にも、一行の記録もない。不思議なことである。
(つづく)

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