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杉村濬の史実発掘――足跡追ったFDP=連載(上)=日本移民導入に尽力=笠戸丸を見ずに他界

ニッケイ新聞 2007年11月15日付け

 移民賛成論を唱えて、ブラジル日本移民の端緒を開いた人、杉村濬(すぎむらふかし、一八四八―一九〇六)。駐ブラジル三代目日本公使として滞伯し、移民導入に尽力した。一回目(笠戸丸)の移民を待たずして、ブラジルで骨を埋めた人――。来年、日本移民百周年を迎えるにあたり、各地、各団体で歴史資料の整理や史実を見直す作業が進められつつある。杉村も対象の一人だ。記録映画製作所(FDP)は、杉村の足跡を追う中で、その子孫から未公開の写真や当時の絵葉書、数少ない杉村の資料を入手。岩手県人会(千田昿暁会長)でも、盛岡市出身である杉村の業績を称えて、墓石を再整備する話が着々と進んでいる。新たに見つかった写真とともに、ブラジルへの移民導入に懸けた杉村濬の生涯をふり返る。
 青い空にキリスト像が白く浮かび上がるようにそびえている。その真下には、横たわるようにボタフォゴ海岸の全景が、右手には、杉村が埋葬されたサン・ジョアン・バチスタ墓地がある。
 今年の三月二十九日、FDPの野崎文男プロジューサーと佐藤嘉一カメラマンは、リオ州日伯文化体育連盟の鹿田明義理事長の案内で、杉村の墓を訪れた。「かなり大掛かりな葬式だったみたいですよ」と野崎さん。
 真っ白な大理石に刻まれた「Fukashi Sugimura」の文字。世界的有名歌手カルメン・ミランダや飛行機の発明家サントス・ヅモンなどブラジルの有名人も多く眠る同墓地に、杉村も横たわる。
 一九〇五年四月十九日の着任からちょうど一年一カ月後の、〇六年五月十九日、脳溢血で倒れた。妻・ヨシと三人の娘を異国に残し、五十九歳でこの世を去った。国賓として扱われた杉村は、公館のあったペトロポリスから鉄道の特別列車でリオまで運ばれ、陸軍の礼砲とともに葬られた。
 一九〇六年五月二十二日付の「コレイオ・ダ・マニャン」紙は葬儀の様子を細かく伝えている。
 「各界の代表並びに多数の庶民、遺体安置所に集ひ(中略)大掛りなる葬列の通過予定地たる市内各所は黒色の人だかりにて杉村濬氏の遺体に対しこぞりて敬意を表せり」「此馬車は一等馬車にして四頭の美麗なる純血種の馬にひかれ、羽飾り並びに黒リボンにて豪華に飾り附けられおりたり。(中略)カナリア、すみれ、菊の花輪一個あり。その奥に日本国旗見ゆ。此の見事なる花輪は共和国大統領ロドリゲス・アルベス閣下より供へられしものなり」(訳・国際協力事業団「移住研究No,20」より)。
 当時、ブラジルに火葬施設はなく、遺灰を日本に持ち帰ることは不可能。ヨシ夫人は杉村の遺髪と爪のみを手に、三人の娘とブラジルを後にした。
   ▽   ▽
 FDPが杉村について調査を始めたのは、約一年半前にさかのぼる。〇六年三月三十日、社団法人農林放送事業団からの委託で、笠戸丸移民の生活を追う一端として杉村のことを調べていた。
 その子孫と連絡がつくことを知り、同年五月二十四日、野崎さんと佐藤さんは日本に飛ぶ。杉村の次男の長男にあたる杉村新さん(84)に会い、未公開の写真など提供を受けた。
 杉村に関する資料はこれまであまり見つかっていない。同氏が、移民導入を進めたきっかけは何だったのだろうか――。つづく

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