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杉村濬の史実発掘――足跡追ったFDP=連載(中)=カナダでの日本人冷遇に悲観=ブラジルへの傾斜強める

ニッケイ新聞 2007年11月17日付け

 杉村を南米移民促進に駆り立てたものは何であったか――。「岩手の先人とカナダ」(菊地孝育著)には第三話でバンクーバー初代領事を務めた杉村についてページを割き、さきの問いを解くための「鍵の一端を在バンクーバー帝国領事館初代領事の頃に見ることができる」としている。
 一八八九年五月、杉村はカナダにおける日本人の増加にともなって新設された同地領事館に赴任した。同書によれば、「濬が海外移民(植民政策)に高い関心を持っていたことが決め手となったと考えられる」とある。カナダ事情に詳しいわけでも、英語が堪能というわけでもなかったが、杉村が「将来の日本人海外植民の候補地として、南北アメリカ大陸を構想していたのは間違いない」。
 当時のバンクーバーとその近郊に生活する日本人は約三百人いた。「言語不適、風俗不案内、先導者ナシ、テンデバラバラニ渡航シテ職ヲ探スが困難」(杉村の報告より)という移民の様子を見て、杉村はなんとかしようと働いた。
 菊地は、一八九〇年以降のカナダにおける日本人移民の発展は、同氏に負うところが「大なのである」とその活躍を称えている。
 また、日本政府に対しては、移住地としてのカナダの有望さを説いて、移民政策のあり方を提言。移民者としての適格性、海外移住規則の制定、居住民の教育の向上、定住のための現地農業会社の設立、そのための土地購入補助制度を設けることなどを求めていた。
 が、時代は、カナダで日本人排斥運動が勃興しつつあり、中国人に続き日本人も制限すべきとの声が聞かれ始めたころ。杉村は一八九一年、二年四カ月間の任務を終え、忸怩たる思いで帰国した。
 「日英同盟のさなか、イギリスの伝統を色濃く残す地域で日本人がこれほど冷遇されつつあること」に失望。これ以後、「濬の移民政策は、北米カナダから南米ブラジルへと傾斜して」いった。
 杉村が渡伯したのは、一九〇五年四月。移住に対する思いを新たに、自らサンパウロ、ミナス・ジェライスの諸州を旅行し、視察を行った。自身が筆をとって「伯剌西爾移民事情附貿易状況」「南米伯剌西爾国サンパウロ州移民状況視察復命書」などの長文の報告書を書く。「ブラジルは移住に適したところである」。
 初代、二代目公使の悲観的な報告書とは打って変わって移民導入を強く推奨する内容。外務省が広く配布したこともあって、杉村の報告書は大いに識者の注意を引いた。日本政府に政策転換を行わせ、水野龍や鈴木貞次郎らをブラジルにひきつけたのだった。
 当時のブラジル政府は、コーヒーの需給事情を警戒したヨーロッパ移民の減少に悩んでいた時だけに、日本移民実現への杉村の努力を高く評価した。そのために、杉村の葬儀は国賓としての盛大なものとなったのである。
  ▽   ▽
 杉村は一八四八年二月十六日、南部藩土杉村で生まれた。幼名は順八。剣道や漢学和算にすぐれ、藩校の頃から頭角を現していた。
 一八七〇年、藩が盛岡県となったのにともない、教学内容が洋学中心に移行。職を失った杉村は、二十三歳で上京し、塾長や横浜毎日新聞の論説記者をしたのち、外務省書記生として、一八八二年、朝鮮京城詰の命を受けた。
 八九年ごろまで、日本と朝鮮との間を行き来し、両国間の難問題を処理するために尽力した、という。
 一八九〇年には、閔妃殺害事件関与で投獄された経歴もある(翌年免訴)。つづく



杉村濬の史実発掘――足跡追ったFDP=連載(上)=日本移民導入に尽力=笠戸丸を見ずに他界

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