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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2008年11月28日付け

 豊臣秀吉・徳川家康とデカセギの因縁とは―。一五九七年に秀吉の弾圧により、長崎でキリスト教徒二十六人が処刑されたのが受難の始まりだ。一六一三年には家康の「伴天連追放之令」が発布、江戸初期までの殉教者数は四~五千人ともいう▼二十四日に長崎で、当時の殉教者百八十八人を福者に列する式典があった。約二百年以上も潜伏した隠れキリシタンの多くは、カトリック国のブラジルこそパライゾだと思って移住した▼一九三八年に建設されたサンパウロ州プロミッソン市のクリスト・レイ教会の正式名称は「キリスト王日本二十六聖人天主堂」。長崎二十六聖人を顕彰するものだ。隠れキリシタンの村、福岡県今村(現在の太刀洗町)出身の移民が建立した▼時差を考えれば、ほぼ長崎と同日の二十三日に、所縁の深い同教会で百周年記念ミサが行われたのは興味深い。しかし、今は同地区に日系人は誰もいない▼逆にかつての受難の地には、デカセギという形でカトリック信徒がすごい勢いで増えた。北関東を管轄する埼玉教区では日本人信徒約二万人に対し、ブラジル人は四万人もいる▼同教区は日本で三番目、最もブラジル人信者が多いのは愛知県の名古屋教区、二番目が静岡県を含める横浜教区という。つまり、四百年という歴史を俯瞰した時、日本移民とその子孫は世界のカトリック勢力図を大きく変更した▼そういえば、秀吉は愛知を代表する戦国武将、家康は三河岡崎(現在の愛知)に生まれて生涯の大半を駿府(静岡)で過ごした。いまや両県が日本最大のカトリック集住地となることで、デカセギは「長崎の敵(かたき)を三河で取った」のかもしれない。(深)

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