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《記者コラム》イザベラちゃん事件裁判という“公開刑罰” 

ニッケイ新聞 2010年3月24日付け

 イザベラちゃん事件報道が再過熱している。08年3月、5歳女児がサンパウロ市北部のアパ―ト6階から何者かに投げ落とされた殺人事件だ。ブラジルマスコミが先を競って今週から始まった裁判の様子を伝えている▼サンパウロ市やリオでは毎週のようにシャッシーナ(複数殺人事件)が起きているし、バスを乗客ごと放火した事件や親族殺人も続々と起きており、悪意に満ちた凶悪犯罪には事欠かないにも関わらず、だ▼死亡したのは一人で容疑者はすでに捕まっている今件が、どんな大事件よりも注目を集めていることに、不思議な印象を受ける。肝心の物証こそ欠けているが状況証拠は揃いすぎるぐらい揃っており、警察筋やメディアはほぼ両親を犯人に断定するトーンで報じているが、本人は徹頭徹尾否認しているという図式が興味深い。この推測が真実なら、両親はとんでもないウソつきであり、日本人的な性善説からはまったく理解できない人物像だ▼だが、おそらく世間では最初からそのような先入観が持たれ、どう「ジュスチッサ(正義)」が下されるか、固唾をのんで見守っているようだ。さながらグローボ局人気番組BBBもどきの密着報道が展開されているのも、エスピアジーニャ(のぞき見)的な感覚だからか▼しかも、新興中産階級の若い両親の過ちというあり方も、一般大衆の興味を引きやすいのか。犯罪の不処罰がなかば当たり前の社会的現実の中で、「テレビで公開された正義」が行われるというのは現代的なショーだ。この報道自身に、衆人環視の下の社会的な制裁という感覚を感じる。大衆は常に、普段の鬱憤を晴らす刺激を求めているのかもしれない。(深)

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