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家族の繁栄を祈りつつ…=白旗諒子さん

特集 コチア青年移住55周年・花嫁移住51周年

ニッケイ新聞 2010年10月23日付け

 52年前のある日、農協組合長さんがブラジルを訪問されて、話をして下さった。それ以来、広い牧場での生活を夢見ていた良き時代でした。
 高校卒業、子供好きの私は保母として埼玉県精薄児収容施設に就職しました。 
 ブラジル移住の夢捨てがたく、イタケーラの子供の園へ保母として移住しようかと思って、色々模索している時間(当時は女性の単身移住は難しかった)だった。
 コチア青年の山口節男さん(隣村出身)の訪日。そして、花嫁募集の話に飛びつき、手段としてブラジル移住を実現させました。 
 それは、サントス着1964年10月12日のことでした。 
 パトロンはサンベルナルド在住の吉本登氏。イタチーバで手広くバタタを作って居られました。パトロアもりえさんの好意で、花婿は、家具を揃えて置くものというしきたり通リ、土壁の小さな家でしたが、真新しい家具が置かれていたのには感動致しました。 
 そこで1年間、バタタを拾い、先輩コチア青年の家族と過ごし、1965年、バルゼン・グランデに借地して独立、バタタ景気が下火になった頃で、レポ-リョなど植えたけれど、潅水設備もなく、下の川から両天秤で水をかつぎ、1株ずつ水をやったり、日本からの拓殖基金を使用しての経営でした。 
 そこで、長女、長男、次男を授かり、イビウーナに土地を購入後、同じく野菜作りでした。 
 イビウーナで次女、三女、四男と7人の子宝に恵まれ、四男が小さな頃は、籠に入れてコートの片隅においては、週末に自分の好きなバレーボールの練習をしたものです。 
 バレーボールは15年間しましたが、やめました。陸上が好きで、1本に絞りました。そして、1991年にサンパウロANASPクラブに入会。初めてのリオでのカンピオナット・ブラジレイロに出場しました。 
 その折、出産を控えていた長女の、「大丈夫、病院で出産するから」と言う言葉に、勇んでリオに行き、そこで初孫の出産の通知を受けました。その時、48歳でした。
 その子が今年(2010年)4月、女児を出産。長女の時はしてあげられなかったので、今度は生れるまで病院で待ちました、曾孫の誕生です。66歳でひいばあちゃんになりました。 
 主人も私も裸一貫でブラジルに来ましたが、ブラジルでの白旗家は末広がりに繁栄していく事を確信して居ります。

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