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「アンドウ・ゼンパチ」=連載にあたって=(上)=サンパウロ人文科学研究所顧問 宮尾進

ニッケイ新聞 2011年1月22日付け

 時代の推移は激しいから、アンドウ・ゼンパチといっても、知らない人の方が断然多いだろうと思っていたので、11月25日に移民史料館であった『アンドウ・ゼンパチ展』のイナウグラソンに、130人余の人達が参加してくれたというので驚いた。
 その際、配布された小冊子「アンドウ・ゼンパチ」は、ゼンパチさんらがつくった土曜会の後身であるサンパウロ人文科学研究所の理事、古杉征己君が調査、取材し、執筆したものである。
 古杉君は、コロニアには新しい人である。ゼンパチさんを知る由もないが、古い資料を調べたり関係者への取材でその生涯をなかなか要領よくまとめている。
 一読すれば、少なくともアンドウ・ゼンパチなる人の人柄、どのような活動をその80余年の生涯の中でしてきたのか、特に日系コロニアにどんな役割を果たした人であったのかの概要を知ることができるだろう。
 ニッケイ新聞で連載が始まると知り(ルビ付きだというので2、3世の方にもご一読を薦めたい)、私が土曜会のメンバーとして、ゼンパチさんと共に行った運動での一つのエピソードを紹介したい。
 戦後10年を過ぎても、ブラジル政府は外国語教育に対する制約は厳しく、戦前の外国語教育に関する取締り法令がそのまま残っていた。
 使う教科書も、一々内容を翻訳して連邦政府に提出し、認可を得なければ正式に使用することも出来なかった。
 ところが、そんなことまでして子供たちに教えている日本語学校はほとんどなく、いわば非合法に隠れて日本語を教えるという、全く戦前、戦中の情況が続いていた。
 日本語教師の経験もあるゼンパチさんが一番心配していたのは、隠れて日本語を学ぶ子供たちの気持ちの屈折であった。そこでゼンパチさんは、私にも協力をもとめた。
 各地の日本語学校の先生を集め、教科書問題と同時に、連邦政府の外国語教育令の改正問題も併せて、それを解決すべく日本語協議会なるものを度々開いた。
 現地の事情に合った教科書を作り、教育省の正式認可を得て、「正々堂々と日本語を学べるようにすべき」と説いた。
 ゼンパチさんがコロニアを回って講演を行なうとともに、私たちは「エスペランサ」という小冊子を編集刊行していた。
 ある年、私はある邦字紙の天皇誕生日の特集に寄稿したことがあった。
 その内容は、天皇誕生に関する祝文ではなく、日本の友人に送る書状の形を取ったコロニアに対する皮肉まじりの批判のようなものだった。
 「Ⅰ君、今日ここでは『天長節』だ。戦後派の君は多分これを『テンチョウブシ』と読んでどんなフシの歌なのだろう。何のことなのだろうといぶかるだろうが、ここの日本人はいまでも天皇誕生日のことを『天長節』と言っているのだ」といった書き出し。
 「日本語教育にしても、日本ではいまや歴史博物館にでも行かなければ見られないような、戦前の文部省の国定教科書で子供に教えているところも随分ある。ブラジルの日系社会というのは、多くはまだ昔のまま。その中で日本の軍国主義的内容の古い教科書では、日本語を教わる子供も可愛そうだ。そこで我々はいまどうしてもこのブラジルに合った新しい教科書を作る必要があると考えー」という内容の記事だったと思う。

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