ニッケイ新聞 2011年6月4日付け
SESCサンパウロは、国際交流基金サンパウロ文化センターとの共催で今月4日〜7月17日まで、SESCピニェイロス(Rua Paes Leme, 195)で、80年代までリベルダーデ区にあった日本映画館への回顧展「4つの映画館における日本」(Japao em 4 cinemas)を開催する。ブラジル映画界にも深い影響を与えた日本映画館の存在を回顧するために、当時の映画ポスターを中心にパンフレット、写真等が展示され、サンパウロ市の〃映画館の黄金時代〃を懐かしむ主旨だという。
「ブラジルの映画研究者なら、誰もが一度は日本映画との関係に興味を持つ。コロニアの映画館は、一般社会にも深い影響を与えた存在であり、それに対する顕彰をするために企画しました」。今回の回顧展を企画した映画研究家のルイス・カルロス・パヴァン氏(41)は、日本語ラジオ放送の元アナウンサーの石崎矩之さんと共に来社し、そう熱く語った。
1953年にサンパウロ市初の日本映画館シネ・ニテロイ(東映)が開館した。以降30年間にシネ・ジョイア(東宝)、シネ・東京(日活)、シネ・ニッポン(松竹)の4つの映画館が生起し、映画ファンが通った。
その中にはブラジル人もおり、少なくとも3人の有名映画監督が生れたのだという。当時は軍政の真っ只中であり、日本映画にはポ語字幕を付けることが義務付けられていた。それが結果的に、ブラジル人が日本映画を理解し、影響を受けることに寄与したようだ。
特に影響を受けた映画人の一人として、パヴァン氏はホジェリオ・スカンゼルラ(Rogerio Sganzerla)監督を挙げた。60年代にシネノーヴォに並ぶ当国独自の映画運動「シネマ・マージナル」を牽引した人物で、その作品には日本映画からの影響が色濃く残っているという。
石崎さんも「ニテロイの集客力によって、現在の東洋人街としてのガルボン・ブエノが作られていったと言って過言ではない」と説明する。
日本映画館の存在により、欧米映画に比べてバラエティに富んだ作品が楽しめた。「その背景には娯楽が少なかった当時、週末には映画を観たいと熱望した移民とその子孫の努力があった」とパヴァン氏は強調し、「ぜひ、ブラジル映画界で非常に評価されている日本映画の価値に触れて欲しい」と語った。
展示会の期間中には、「映像と音の中の日本」と題して、映画の講座、折り紙のワークショップなど様々な催しが予定されている。また映画館の内装を再現したものも展示され、映画館の歴史も辿ることができる。
展示会の会場時間は、火曜〜金曜が午前10時半〜午後9時半、土日、祝日が午前10時半〜午後6時半。入場は無料。映画の上映会は7月26日までの毎週火曜日。問い合わせは同SESC(11・3095・9400)まで。
3日夜の開幕イベントで石崎さんは、日本映画館が果たしてきた役割や影響について講演。映画の上映会では、小津安二郎、溝口健二、今村昌平、黒沢明などの往年の名作に加え、当時の日本映画館に通っていたファンのコメントを集めた約40分間の実録映像も上映される。