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世界市民的な移民女性=平田美津子という生き方=第3回=「移民の子と結婚するのか」=家族の反対押し切って

ニッケイ新聞 2011年10月19日付け

 美津子は当時のNHK内で平田進と知り合ったいきさつを、こう説明する。「アメリカ二世が大勢いて、みんなとは英語で話していましたが、彼らは日本語はしゃべれても読み書きは苦手だった。その点、平田は完璧にできた。しかも、お互いにカトリックだった。家族の中でもカトリックは私一人だったので、いろいろ話をしているうちに一番気が合うなと思うようになったんです」。
 それもそのはず、平田家は1912年、第4回移民船・神奈川丸で渡伯した福岡県太刀洗町今村の隠れキリシタンの出だった。いわば日本人最古のカトリック・キリシタン家系の一つだ。大刀洗町からは1912年とよく13年の2年間だけで約300人の信徒がブラジルに移住したという。
 進は到着翌年の13年10月、サンパウロ州奥地サンノエル郡で生まれた。平田の両親は開戦前にすでに福岡県に永住帰国していた。戦前に三浦鑿の日伯新聞でポ語欄の編集部員をする傍ら、USP法学部を41年1月に卒業、太平洋戦争が始まる。
 42年7月、石射猪太郎大使らと共に最後の交換船で留学生として日本に渡り、東京大学に留学し、10年間も滞日した。戦争中NHKのポ語放送のアナウンサーに従事し、そこで美津子と出会い、44年に職場結婚した。
 「最初は、移民の子と結婚するのかって、家族全員から反対されたんです。特に母がうるさく反対しました」。父親は外交官、母方の祖父は職業軍人という由緒ある家系で、しかも幼少時から英語で英才教育を受けていた長女、美津子。苦労するのが目に見えている相手と娘を結婚させるのは忍びない、母親はそう考えたのかもしれない。
 けっして裕福ではないブラジル移民の子にして、隠れキリシタンの流れを汲む平田進は、岡本家からすれば〃どこの馬の骨とも分からない人間〃と思われていたのかもしれない。当時、誰も目の前の若者を、将来のブラジルを担う連邦議員などとは思わなかった。いや、本人すら思っていなかっただろう。
 「最初に認めてくれたのは父でした。とりあえず会ってくれ、『いいだろう』と言ってくれたんです。本当に嬉しかった」と美津子は昨日のことのように頬をほころばす。家族に反対されながらも平田を選んだ理由の一つは、彼がカトリックだったからだ。フィリピンで洗礼を受けた美津子は、家族で唯一のカトリック教徒だった。自らのアイデンティティの重要な部分を補える関係が、信仰の部分にあった。
 「局内では付き合っていることは素振りも見せませんでしたから、いきなり結婚式の招待状が届いて、みんな驚いたようです」。東京霞町のカトリック教会で式を挙げたが、その3カ月後に空襲で焼けてしまった。
 「戦前は外国で裕福に暮らしていたのに、戦争中は嫌な目にあった。食べ物はないし。とにかく早く戦争が終わって、外国に出たい、ただひたすらそれを願って耐えていました」とふり返る。
 NHKの仕事がなくなった後、「東京では食べ物に困る。それで米どころで有名な平田の実家のある太刀洗にいったんです」。
 この町は平田家同様に、ブラジルからの帰国者が多く、その子孫は大正時代から朝夕にコーヒーを飲み、今現在でも「ママイ(母さん)」「パパイ(父さん)」「ドミンゴ(日曜日)」など、筑後弁にポ語のコロニア語が混じった不思議な言語習慣を残しているといわれる。(つづく、敬称略、深沢正雪記者)

写真=1945年、結婚1年後、新婚ほやほやの頃の様子。(東京で、平田家所蔵)


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