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県連移民のふるさと巡り=ガウチョの国に友訪ねて=亜国、ウルグアイ編=(2)=モンテビデオ=日本人会メンバーと交流=「ここにもコチア青年」

ニッケイ新聞 2011年11月4日付け

 2日目の7日、参加者一行は早朝にブエノスのホテルを出発して高速船に乗り込み、ウルグアイの首都モンテビデオへと出港した。ラ・プラタ川を渡って亜国とウルグアイの首都を結ぶ主要交通機関で、定員1600人と大型で40ノットの速さで進む高速フェリーだ。約150キロを3時間かけて、モンテビデオ港に到着した。
 ウルグアイ東方共和国は日本の約半分にあたる面積17・6万キロ平米で、人口は約340万人(2010年現在)だ。
 一行は市内のレストランで駆けつけたモンテビデオ日本人会の3人のメンバーと面会した。田中賢一さん(熊本、74)、治田守さん(新潟、80)、阿部勇さん(新潟、75)だ。会長は治田さんの息子、タケルさんが務めている。
 本橋団長は3人に謝意を示し、ふるさと巡りや県連日本祭りの概要を紹介。今年の日本祭りの様子を収めたDVDや県連、各県人会の年間活動報告書などを手渡した。
 田中さんはおじの呼び寄せで、オランダ船のテゲルベルグ号で1955年に、まずサントスに上陸した。当時ウルグアイに日本大使館がなかったため伯国へ渡ったのだ。
 その後、モンテビデオに移ってからは花卉栽培に従事。港の仕事に20年就き、食品卸売業の会社を20年経営。5人いる子供のうち、現在3人が日本に住んでいる。
 田中さんによれば、ウルグアイへの移民は伯国、パラグアイ、ボリビア、亜国などから移った人が多いという。実数は不明だが、その数は5〜600人ほどだという。
 ウルグアイに最初の日本人会が誕生したのは1933年で、会員数はわずか22人だった。後に資金不足や新組織への発展的解消、太平洋戦争の開戦による活動停止などを経て、67年に第四次日本人会が創設された。発案者は田中さんだ。「当時、同志が8人いたので始めた」といい、会長を4〜5年務めた。
 最初の総会には60人ほどが出席したといい、現在の会員数は、二〜三世を中心に約80家族。
 会館に併設する日本語学校の運営が活動の中心だ。50年前後に4〜5人の子供たちを集めて開始、現在小学生クラスには15人、外国人向けクラスでは40人が学ぶ。
 カラオケで演歌を歌ったり、ゲートボールが好きで伯国を頻繁に訪れ友人も多いという田中さん。11月には亜国で行われるゲートボール南米大会にも参加するという。「ウルグアイに来て良かった」と晴れやかな笑顔を見せた。
 阿部さんは57年、最初はコチア青年として来伯し、バストスへ入植した。そこで約5年間過ごした後、結婚した。妻のおじがウルグアイで花作りに従事し、経済的に安定していたと聞いていたことや、当時伯国がブラジリア建設でインフレに陥っていたため見切りをつけ、同地に転住した。以来40年以上、カーネーション、菊などの花卉栽培に従事している。
 「人口は少なく税金は高いものの、福祉や教育制度が整っている」と当地の良さを語った。
 一行の一人で、新潟出身の佐藤一津さんは同郷出身の治田さんと言葉を交わし、「新潟県人会の55周年式典に来られてはどうですか」と誘っていた。
 阿部さんは一行参加者らと言葉を交わしながら、「コチア青年は本当にあちこちにいるんだね」と嬉しそうに話していた。(つづく、田中詩穂記者)

写真=モンテビデオ日本人会の皆さん、本橋団長(右端)、参加者の神林義明さん(中央)


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