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(9)=〃消えた移住地〃の今昔=地元文協「運営厳しい」

ニッケイ新聞 2012年4月25日付け

 「父は数十年アメリカに住んでいたので英語の雑誌などは読めましたが、発音が下手だった。だから子供には先にブラジル語を覚えさせてから日本語を教えようと思ったんでしょうね」と西沢ミドリさん。
 当時の入植者について「アメリカから来た人が多かったのでみんなアベルタでしたね。家父長制のようなものはなかった」と振り返る。
 「32、3年頃、文化植民地ではコーヒーが売れず畑を焼いたりしたが、その後は綿やアメンドインを作っていた」。『消えた移住地』によれば当時コーヒーは大暴落したが、文化植民地では主作を綿に転換したところ数年後には綿景気が到来したという。
 この機をとらえ37年、「綿花協同販売組合」が創立され、39年には「パ・パラグァスー生産組合」に発展。精綿出荷量は、40年頃はバストスやアバレーを凌駕したほどだった。
 しかし組合は開戦とともに経営介入を受け、ブラジル人経営者のずさんな経営の結果、解体に追い込まれた。戦争が終わると綿景気は去り、残ったのは地力の低下した土地だけだった。
 結局、文化植民地には北米から入植を予定していた地主の半分も入植しなかったことになる。再移住を考えていた人が地権問題などに不安を感じ、教育の問題もあり米国を離れにくくなるうちに戦争が始まり、収容所に送られるようになってしまったからだ。
 戦争の前後から不在地主が土地を手放し始め、残った土地は山田氏が管財した。戦後は地力の低下に加え指導者らの死去、大霜、生産費の高騰などで多くの人が他地域へ転出し、65年には入植者は10家族程度に減っていた。
 西沢夫妻によれば現在、文化植民地時代に地主らが購入した土地は、今では牧場やサトウキビ生産のために貸し出されているという。
 57年からパ・パウリスタに住む伊藤久年さん(86、北海道)は「30年代はブラジル人が日本語を覚える必要があるほど日本人が多かったようだが、今は一世の男は私くらい」とつぶやいた。
 「大学を出ても田舎には仕事がない。留守家族のようになりますね。若者はいますが、活動の中心にはならない」
 しかし現在の佐々田会長が活動の刷新を図っているといい、1997年9月に落成した会館は「田舎にしては立派ですかね」と伊藤さん。
 同文協ではプ・プルデンテ、アルバレス・マシャード、オウリーニョスなどの団体と交流があり、ゲートボール、芸能祭、カラオケなどが行われている。
 よく行事を共に開催するという、同地から約30キロのアシス文協から交流会に訪れた西沢洋さん(69、二世)は「こことは兄弟のようなもんですね。運動会は今年で12回目になります」と笑顔を見せた。
 47年に同地に生まれ、サンパウロ州立大学の教員としてボツカツで働いた評議員会長の丸林オズワルドさん(65、三世)は「ここに日系人は少ないが、先人から受け継いできた日本の伝統を守ろうとしている。良い思い出を持って帰ってください」と舞台で一行に挨拶していた。
 「60年代、コロニアは大きかった」と振り返る。戦後は、気候や土地がよかったため商、農業、牧畜などをやるために他地域から移った人も多かったという。
 同地に現在日本語学校はない。幼少の頃通ったという丸林さんは「学びたい若者がいない。運営は難しいね」と静かに語った。(つづく、田中詩穂記者)

写真=左から西沢洋さん、参加者のイデ・ムンドさん、丸林さん、西沢裕美さん



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