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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第61回

ニッケイ新聞 2013年4月25日

「それじゃ後で」
 小宮は彼女に目で合図した。すぐに授業が始まった。
「皆、こっちを向いてくれ。授業を始めよう。今日は算数をやろう」
 彼は黒板に一桁の足算、引算の問題を十題ほど書いた。
「さあ、できるものは前に出てやって下さい」
 ほとんどの者ができると手を上げた。教師が適当に指名すると、当てられたものは黒板の前で問題を解き始めた。授業の進め方は日本の小学校と同じだった。違っていたのはそれからだった。
 黒板の前で、ある者は何度も答えを書いては消してやり直した。またある者は黙ったまま考え込んでチョークを握り締めていた。中には手の指を使って、懸命に計算している者までいた。
 他の生徒はノートに問題を写していたが、さすがに小宮は問題を写す気にもなれずに、他の生徒のノートをのぞき込んでいた。彼の隣の席に座ったクラウジアも真剣に答えを出そうとしていた。
 大学生教師は一人一人のノートを見ながら教室を一巡した。小宮の横に来ると、何もしない小宮に注意した。「日本人、君もしっかり計算をするように」
「あのくらいの計算はわかります。私はポルトガル語の勉強がしたくてこの学校にきているんです」
 小宮はモブラールに来た理由を教師に説明しようとした。しかし、その教師は簡単な計算はできると答えたのが気に触ったのか、話を最後まで聞こうとはしなかった。
「では前に出てやってみてくれ」
 苦笑いをしながら小宮は黒板の前で問題を解いた。一桁の計算だ。解くのに一秒もかからなかった。教室から拍手と歓声が沸き起こる。それがまた癪に障ったのか、今度は二桁の問題を出したが、結果は同じことだった。教師は掛算、割算を出題したが、小学校の中学年、高学年程度の問題だった。
「答えは正しいがやり方が間違っている」教師が言った。
 小宮は暗算で答えを出していたが、教師には暗算が理解できないらしい。小宮はこれ以上やると、大学生教師のプライドを傷つけるとわかり席に着いて簡単な問題もノートに写し始めた。
 授業は一時間ほどで終わった。小宮は通訳をしてくれた女性に礼を言った。
「さきほどはどうもありがとう。バスで日本まで行けると思っている人がいるなんて考えてもみなかったよ」
「ブラジルは広いから教育が日本のように行き届いていないのよ。字も書けない、計算もできない人がこの国では珍しくないの」
「私は小宮といいます。自動車整備技師をしています。よろしくお願いします」
「私は東駅叫子、変な名前でしょう」
 小宮も内心、奇妙な名前だと思った。
「叫子さん、時間があるようでしたら食事でもどうですか」
「ええ、付き合うわ」
 二人は学校を出てガルボン・ブエノ街に向かって歩いた。
「寿司でもどうですか」
「私、嫌いなものなんてないから、なんでもいただきます」
「そうですか。それなら寿司安にいきましょう」
「あそこは高いでしょう」
「給料もらったばかりだから今日はおごります」
「自動車整備士をしているって言ってたけど、給料いいんだ」
「普通でしょう」
「寿司安で食べるなんて、コロニア(日系社会)の成功者か進出企業の人たちだけよ」
「そうなんですか」
 寿司安は学校から歩いて十分ほどだった。テーブル席は満席で二人はカウンターに座った。ネタは日本の寿司屋とほとんど変わりなかった。


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