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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第115回

ニッケイ新聞 2013年7月13日

 日本から持ってきたカメラや小型テープレコーダーは売り払ってしまい、金目のものはなかった。仕方なく児玉はテレーザに助けを求めた。理由を説明すると、二つ返事でテレーザのアパートで生活するのを許してくれた。
 パウリスタ新聞一面の入稿作業は夜の八時には終わっていた。仕事を終え、コンデの坂を上りジョン・メンデス広場からコンソラソンにあるテレーザのアパートまではバスを利用した。
 着いた頃には、エンプレガーダが食事を用意していた。テレーザとトニーニョと三人で食事をし、その後、トニーニョが寝るのを待ってテレーザはミッシェルに向かった。その後、児玉はシャワーを浴びて、テレーザのベッドに潜り込んだ。
 朝までボロ雑巾のようになって眠った。
 テレーザが戻るのは明け方だった。児玉を起こさないようにそっと毛布の中に入ってきた。児玉が腕を差し出すと腕枕にして、テレーザはすぐに寝息を立てて眠りに落ちた。テレーザの静かな寝息が児玉の首筋にかすかに流れる。児玉はその寝息の感触に安堵感を覚えた。
 起こす時間をエンプレガーダに言ってあるのか、七時になると控え目にドアをノックする音が聞こえてくる。テレーザはそっと起き出し、ドアを少し開けて「ボンジア」とエンプレガーダに告げた。
 テレーザは二、三時間くらいしか寝ていないが、必ず起きてテーブルにつき、朝食はいつもトニーニョと一緒に摂る。保育園に送りだしてからまた寝るようにしていた。児玉がそのアパートで暮らすようになると、テレーザは児玉が出社するまで起きていた。玄関まで出てきて、児玉の首に両手をからませキスをして見送ってくれた。
「チャオ」
 テレーザの声に送られて出社した。援護協会で処方箋をもらった薬が効いたせいもあるが、酒を一滴も飲まず規則正しい生活を送ったためだろうか、一ヶ月もすると児玉の体調は以前と同じ状態に戻った。
「児玉さえいいなら、ここにずっといてもいいのよ」
 テレーザが言った。
 しかし、児玉はその一言でアパートを出なければと思った。テレーザと結婚する気持ちはまったくなかった。トレメ・トレメから離れてゆっくり休めば、体力も回復するだろうし、四、五日くらいのつもりで転がり込んだのだ。居心地の良さに一ヶ月も居座ってしまった。
 トレメ・トレメに戻れば、また元の生活に戻ってしまう。新しいアパートを借りるにも資金がなかった。残っている金目のモノは新聞社に置いてあるカメラが一台だけだった。
 パウリスタ新聞にあったのはキャノンとニコンFが二台だけで、ニコンFは写真部長が占有し、キャノンを社会部の記者が共有していた。そのため児玉は自分のカメラを一台だけは自分専用に机の中に保管していた。
 カメラを売れば新しいアパートを借りるだけの資金は工面できる。それのカメラを売却するしか道はなかった。ブラジルの土産物店の店主に、最後のカメラを売却した。
 その金で児玉は東洋人街の外れにあるピーレス・ダ・モッタ街に小さなアパートを借りた。トレメ・トレメからの引っ越しは簡単だった。日本から持ってきたトランク二つに衣類を詰め込み、アントニオが運転する取材車で借りたアパートに移った。彼女たちが適当に飲んでくれるだろうと思って、飲みかけのウィスキーや封の切っていないボトルはドアの横に並べて置いた。
 ピーレス・ダ・モッタ街からパウリスタ新聞までは以前より近くなったが、月給の半分を家賃に支払う羽目になった。すべて身から出た錆だが、生活が以前にもまして困窮するのは明らかだった。
 パウリスタ新聞の収入だけでは、一日一食の食事さえ事欠く。児玉は学生時代に書いた原稿を活字にしてくれた出版社に原稿を売り込むことにした。都合のいいことにサンパウロ総領事館や文化協会の担当を外されていた。(つづく)


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