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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(15)

ニッケイ新聞 2013年6月4日

 それに、1934年の排日法成立の頃から、この新しい動機による帰国が加わった。
 一家そろって……というそれもあったが、とりあえず子供の教育は日本で……という風潮が強まり、経済的余裕のある親は、小学校を終えた子供を日本の中学校に入れるため、日本向けの船に乗せた。
 その船には、留学あるいは従軍を志願する青年たちの姿もあった。

 ブラジル日系人実態調査委員会編『ブラジルの日本移民』によると、1927年以降のサントス港からの日本人(一世、三等船客)出国数は、1933年までの年平均606人が、34〜38年は年平均1007人、さらに39年は1396人、40年は1581人になっている。1941年は6月までで810人である。これは一世だけの数字であり、ブラジル生まれを含めれば、もっと多くなった筈である。
 また山本喜誉司・須田為世共著『ブラジル日系人口推計』は、複雑な数式を用いて、在伯邦人の人口の減少率を算出している。同書は1908〜1930年間の年平均1・05%に比較、1931〜1940年間は2・085%になっていると指摘、この減少は、出国者の増によるとしている。
 出国者の中には、アルゼンチンなど第三国へ行く者もいたが、大多数が日本へ向かった。
 このまま行けば、帰国者は、さらに増え続けたであろう。

 敵中に孤立

 1941年12月、欧州の戦火は、遂に太平洋・アジア方面にも飛び火した。日本が米英に開戦したのだ。
 地球上に、ナショナリズムの紅蓮の炎が燃え広がり、絡み合い、互いに相手を焼き尽くそうとしていた。
 ブラジルの邦人社会では、日の丸の下への再移住──という新しい気運が生まれていたが、この大異変で、完全に〃お預け〃となった。
 しかし、一方で、日本軍の緒戦の大戦果に喝采、勇躍する人々が多かった。
 祖国日本に対する米英の理不尽な要求に対する義憤もあったが、在伯邦人としての怒りも重なっていた。1924年から始まった折角の興隆期が僅か十年で終わったのは、米英工作による34年の排日法成立が主因であり、その後のゼッツリオ・バルガスの邦人社会に対する圧迫策にも、背後に両国の影があった。
 従って、日本が米英に鉄槌(てっつい)を下し、自分たちの恨みを晴らしてくれた、という爽快感が心中、沸き起こった。
 当時の邦人社会の指導者格の一人であった宮坂国人(ブラ拓代表)は、開戦の日に「わが海軍ハワイ真珠湾攻撃の報あり、遥(はる)かに太平洋を望みて感激の涙流る」とノートに書きとめている。宮坂は、排日法で苦汁を呑まされていた。
 外国語新聞の発行禁止で、自分の聖州新報を廃刊させられた香山六郎は、その回想録に、こう記している。「(開戦報を知らせてくれた友人と)痛快々々を連呼した…(略)…二人は肩を抱き合ってしまった…(略)…男泣きにわめいた。日本万歳──」

 当初、ブラジル人は好意的だったが…

 以下も一部要旨は、拙著『百年の水流』改訂版と重なる。
 日本の開戦に対し、一般のブラジル人は当初、好意的であった。香山は、次のように記してい
る。
「私は中央街に出てオ・エスタード紙を買いニュース欄に眼を通した。街頭で周囲の騒々しい人波もシンとしているように感じつつよんだ。私の肩を叩く人がある。伯人だ。見知らぬ。日本は、とうとう始めたな、とニッとして行ってしまった」(つづく)

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