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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(31)

 興道社は未だ設立されていなかった。
 襲撃事件は多く起こったが、詳細は不明である。興道社の結社員の残した小冊子には「被害者は殆ど警察沙汰にはしなかった。利敵産業を営む後ろめたさによる」とある。
 サンパウロ州公文書保管所2000年発行の“SHINDO ? RENMEI : TERRORISMO E REPRESSAO”(臣道連盟─テロリズムと制圧─)によれば、1944年4月24日から28日にかけて、マリリアで6棟の養蚕小屋が焼き討ちされ、その後、襲撃はノロエステ線のリンス、アリアンサ、パウリスタ延長線のアンドラジーナ、ポンペイアと続き、1945年1月のノロエステ線ミランドポリスでの事件を最後に終わった……ということになっている。
 しかし、これは警察沙汰になった事件だけである。
 興道社の社長吉川は、1944年8月、オールデン・ポリチカに逮捕された。襲撃の指揮や扇動をしたという嫌疑によ ものであった。翌年までカーザ・デ・デテンソンに拘置されたが、起訴はされず、釈放されている。証拠が上がらなかったことを意味している。
 興道社は、1945年7月、臣道連盟と改称した。(当時の使用文字は臣道聯盟)

二種類の出征

 戦時中、邦人社会からも出征者が出た。人数は少ないが、戦場へ行き、戦った若者たちがいた。戦死した者も……。
 その一部は日本兵として、他はブラジル兵として……。
 前者は、戦前に日本へ帰国した一世あるいはブラジル生まれの若者である。すでに記した様に、当時は、ブラジル生まれであっても、その大部分は日本国籍を所有、自 
分自身、日本人であると思っていた。
 1930年代、ブラジルに於けるナショナリズムの昂揚の中で、日本への帰国者が増加した。その中には、戦時中、兵役適齢期になった若者が相当数いた。しかし、出征あるいは戦死した人数は、正確には判っていない。
 留学という形で日本へ行った学生については多少判っている。その一人であった馬場謙介が著書『故郷なき望郷』で、仲間の出征にふれているのである。
 その仲間は50人余おり、内、日本兵として従軍した者15人、戦死は6人とある。ただ、これは、馬場が把握できただけの数と見た方がよい。
 内山勝男著『蒼茫の92年』 には、戦死者8人の記事が出ているが、これも把握できた事例のみと見るべきであろう。馬場の仲間と重複しているかもしれない。
 8人の中には特攻隊として出撃・戦死した若者もいた。
 戦後、東南アジア方面に残留した日本兵が多く居たことは、よく知られているが、タイ残留日本兵の中に、ブラジル生まれの坂井勇という人がいたことが、日本で報ぜられ、それが1985年10月9日のサンパウロ新聞に転載された。
 坂井は、この時点で67歳。彼の家族は1913年の渡航で、当人はサンパウロの生まれ。1940年、23歳のとき、家族で日本に一時帰国したが、開戦でブラジルに戻れなくなった。その後、召集されて朝鮮、マレー、シンガポールと転戦、インパール作戦も経験した。戦後はビルマの民族解放闘争に参加、戦闘が一段落後は、そのまま残留した。「ブラジルにも行ってみたいが、金がないからな」と話していたという。  
 また、2010年9月9日のサンパウロ新聞に、ロンドリーナ在住の安中裕(84歳)という人の話が掲載されている。安中は、1928年、1歳で家族に連れられて移住したが、ゼッツリオ・バルガスの外国語教育禁止令を嫌った父親が、日本に戻ることを決意、1939年、引き上げた。45年、満州で召集を受けて入隊、シベリアに抑留され48年帰国。51年ブラジルに戻り、生活の都合上、82年に帰化した。ところが、その帰化が禍して、2010年の日本政府のシベリア特措法による、一時金の支給対象から外されたという。

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