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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (34)=桂に続け! 続々と植民地誕生=「さあ本番」で渡航中止

ニッケイ新聞 2013年8月28日

移民開始期の主な出来事と移民船のリスト(『発展史』(上)より作成)

移民開始期の主な出来事と移民船のリスト(『発展史』(上)より作成)

 水野龍が最初、聖州政府と契約を交わそうとした時、「単独青年」を想起していた。それまで北米や東南アジアへ送られていた出稼ぎ移民はみな単独青年であり、それが当時の移民会社業界の常識であった。
 だが聖州政府が定着性を重視して契約に「3人以上の稼働労働力を有する家族」という条件を付けた。当時の移民会社は「家族連れは非現実。交渉しなおすべき」と猛反対し、水野が単独で伯国移民を始めることになった。今からすれば聖州のこの要求が、結果的に北米などとの違いを生み、それが時間と共に日系社会の特色となっていった。
 実は水野が聖州政府と交わした最初の契約にも鉄道沿線に「植民地造成」の権利が明記されていた。水野も本来はコロノ(農業労働者)導入と植民地造成を同時に始めたかった。だから社名は「皇国殖民会社」だった。しかし、笠戸丸移民から預かった金を返すことすら困難だった状況において、桁違いに莫大な投資が必要な植民地造成を実施する資金力などあるはずもなかった。植民地許可が特権だとは重々分かっていたが実行できなかった。苦々しい思いの中で、青柳の独り舞台となりつつある移殖民事業の様子を、指をくわえて見ていた違いない。
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 1913年11月の桂入植に始まった「日本人植民地」という芽は、たちまち聖州内陸部に広がった。馬場直によるパウリスタ線モツカ駅への植民地創設は1915年3月、平野運平による平野植民地開拓は同年8月など続々と続いた。星名謙一郎と小笠原尚衛によるブレジョン植民地売り出しは1917年10月、上塚周平らの上塚第一植民地が1918年2月と続く。
 とはいえ、当時はまだ日本移民は聖州政府から「試験期間」と位置づけられていた不安定な時期だった。「笠戸丸」が運んだ日本移民(781人の契約移民と12人の自由渡航者)は争議や脱耕が相次ぎ、日本政府は「失敗」と認識して渡航を中止させた。前述したように笠戸丸は海軍に返還され、翌1909年に移民船は出ていない。
 2年後の1910年にようやく第2回移民船「旅順丸」が出たが、これも定着率が低く、成績不良で翌年は渡航見合わせとなった。ブラジル移民がある程度、順調に渡航し始めたのは1912年から、それでも第3回「厳島丸」と第4回「神奈川丸」のみだった。
 つまり、東京シンジケートは1912(明治45)年3月に聖州政府と官有地の無償払い下げ契約を結んだ時点で、まだ移民船は3隻目まで。笠戸丸から4年目にして、ブラジル移民事業はまだどうなるか分からない極めて不安定な状態で、いわば危険な賭けだった。1913(大正2)年から移民事業はようやく本格化するが、同年11月の桂初入植までに渡伯した日本移民は、総計してもまだ約1万1400人程度だった。
 しかも「さあ、これから!」という1914(大正3)年1月、聖州政府は「日本移民の試験導入はもう十分」との理由で渡航費補助を突然辞めた。14年3月に最後の2隻が入り、輸送回数計10回、1万4886人(3734家族)を以って中断となった(『発展史』上、309頁)。
 貧困層が多い移民希望者に対して、高額の旅費を自己負担することなど期待できるわけもなく、移住事業は一端中断した。窒息寸前だった移民送り出し業界は無用な競争を避けて生き残るために、1916年3月に竹村、東洋、森岡各移民会社が合併して「伯剌西爾移民組合」になった。
 第一次世界大戦で欧州移民が途絶してコーヒー園労働者が枯渇していた現地の状況を知り、同移民組合は改めて聖州政府と交渉し直し、1916年8月、ようやく聖州政府から渡航費の一部補助を受けて、4年間に日本移民2万人を誘入する協定を結んだ。こうして1917年6月、3年ぶりに本格移住期が始まった。いわば、大戦のおかげで移民事業は一息ついた。(つづく、深沢正雪記者)

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