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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (61)=苦難のセッチ・バーラス=苦々しいコーヒーの経験

ニッケイ新聞 2013年10月25日

まるで医者が何人もいるかのような立派な海興セッチ・バーラス医局の写真(『二十年記念写真帳』)

まるで医者が何人もいるかのような立派な海興セッチ・バーラス医局の写真(『二十年記念写真帳』)

 山根家が最初に配耕されたのは、幸運なことに北パラナのカンバラにあるバルボーザ耕地だった。「テーラ・ロッシャですよ。ブラジルは素晴らしい土地だと感じた」と振り返る。そこで義務農年を3年ほど過ごした。
 その間に「父が伯剌西爾時報を読んでいて、海興がセッチ・バーラス植民地を開いたという宣伝がしょっちゅう出ていた。日本語学校があって日本人の医者がいるって。パパイが視察に行ったら、例の地図を見せられ『将来性のある場所だ。ここにする』と決めた」。
 子供の教育のことを考えた父は、山根さんが7歳の時にセッチ・バーラスへ。「来てみて、ここは聖南で一番土地が悪いと分かった。もう後の祭り。交通は不便、傾斜地ばかり、岩がたくさん、地味が良くない。みんな後から分かった。伯剌西爾時報で盛んに宣伝していたのは、誰も入植する人が居なかったからだと、後から合点がいった」。
 父の判断がさらに事態を悪化させた。「日本から持ってきた資金を使って、父は7ヘクタールも原始林を買い、カマラーダにお金払って全部伐採させたんです。農業経験もないのに…」。ないからこそ、そうしたのかもしれない。「父はパラナの原始林はすごい太い、大きな樹木がたくさん生えていたが、ここは幹が細くて藪みたいだって言っていた」。気づいた時はもう遅かった…。
  山根は苦々しい記憶をたどる。「原始林を伐採したのは1月、雨季です。この辺は雨ばっかりで、焼こうにも焼けない。なんとか焼いたが、家族しかいないんだから7アルケールもコーヒーの世話をできない。大騒ぎして結局植えたのは半アルケールだけ。今思えば無駄金を使いました」。
 父は日本での宣伝「コーヒーは〃金のなる木〃」を信じていたし、実際にパラナでは素晴らしい出来だった。「ブラジル来てそれを植えないでどうするか!」と父はいっていたという。
   ☆   ☆
 ブラジルの主力輸出品コーヒー豆は常に国際価格に左右された。第一次世界大戦の勃発により、欧州市場での需要が停滞した。終戦後も革命やら政治的混乱、インフレで需要が回復せず、だぶついていたところへ天の助けのように米国が1920年に禁酒法を施行し、酒の代わりにコーヒーが爆発的に愛飲され始めた。
 第1次大戦前の1913年には650万袋のコーヒーをブラジルから輸入していた米国は、禁酒法によって1919年にコーヒーブームがおき、1923年には1100万袋まで増加させ、ブラジルに巨万の富をもたらせた(『コーヒーが廻り 世界史が廻る』臼井隆一郎、中公新書、1992年、東京、212頁)。
 この流れに乗って海興はイグアッペ植民地でのコーヒー生産を許可し、聖州ではコロノ需要が拡大したため日本移民は1925年から大量流入をはじめた。
   ☆   ☆
 コーヒーは苗を植えてから収穫開始まで4年かかる。「その間収入がないでしょ。お金使いすぎて生活費がなくなって他の農場のカマラーダやってしのぎました」。
 やはり最初は米だ。「でもセッチ・バーラスは傾斜地ばかり。地形が米に向いてない。セッカ(旱魃)の時は、まったく実がつかないで白穂ばかりになった…。で、みんな米を辞めた」。
 試行錯誤の毎日だ。 「養蚕、養鶏、いろんなことをやりましたよ。でも道路が悪いから…。セッチ・バーラスにいた40年間はずっと暗闇で手探りという状態だった。うちの近くに海興の農場があったが、管理人一人がいるだけで何の指導もなかった」。
 しかも蛇が多い自然環境だった。「入植してすぐの頃、姉の子供(4歳)が毒蛇に咬まれて死んだ。血清なんかない時代でしょ。あの辛い思いがあるから今でも蛇をみたら即殺します」。医者がいる、病院があるという宣伝文句は守られなかった。セッチ・バーラスとキロンボの間に海興の病院が作られたが、「薬剤師はいましたが医者はいませんでした」。(つづく、深沢正雪記者)



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