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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (31)=日露戦争従軍者が多く参加=〃鎮台〃に誘われ桂入植

ニッケイ新聞 2013年8月23日

かくしゃくとした様子で語る西館正和さん

かくしゃくとした様子で語る西館正和さん

 90歳前後の二世がゴロゴロいるリベイラ河沿岸地方だが、北海道生まれの一世、西館正和さん(90)=イグアッペ在住、3月13日取材=も健在だ。
 前節で紹介した桂小学校について「初めて学校に行った日、友達はみんな二世だった。パパイがリベイロン・プレットのお土産として買ってきてくれた編上げの皮靴に、日本の小学校4年の制服を着て行ったら、みんなに笑われた。だから、次の日から僕も裸足でいったよ。それから1年半通った。でもそれっきり」とはっきり覚えている。西館さんは1922年9月生まれ、1932年に9歳で家族と共に渡伯した。「5月31日に神戸港を出航して、7月27日にサントスへ」とスラスラと出てくる。
 最初はモジアナ線シダーデ・サンシモンのコーヒー耕地に配耕され、10歳で働き始めた。西館さんは桂植民地に入ったきっかけを、「父(繁太郎)がリベイロン・プレットの坂元鎮台さん(坂元靖)から『イグアッペ植民地が有望だ』って聞いて、セッチ・バーラスの土地を買う契約をしてやってきました」と説明する。
 坂元靖は陸軍士官学校(第20期)卒、乃木大将が連隊長をしたことのある、第十二師団歩兵第十四連隊の旗手をしたことがある。心酔していた乃木大将の殉死を機に軍籍離脱し、遠縁でリオ公使館付き武官・伊丹松雄陸軍大尉からブラジル移植民事業に加わることを薦められ、1914年に渡伯し、1917年から伯剌西爾拓殖会社に加わり、リベイロン・プレット出張所主任をしていた。《よく飲み、よく利れたので、一般の若い連中からも人気をあつめ「坂元鎮台」と愛称され、コロニアの名物男の一人となった》(『物故者列伝』103頁)。
 多くの戦前移民と同じように、西舘家もノロエステ線、パウリスタ延長線に入っても良かったはずだが、人望のある〃鎮台〃の誘いとあっては、「きっと間違いない」となった。
 イグアッペ植民地所長をしていた白鳥堯助もまた、元日本銀行員で、日露戦争では陸軍中尉として満州に出征した人物だ。白鳥は病を得て帰朝し、静養したあと、伯剌西爾拓殖会社が創立されたと聞き、これに入社して本店事務長となった。1917年8月に「シャトル丸」の輸送監督として渡伯した。のちに海興サンパウロ支店長も歴任したが、病気で帰国の途上、1934年10月に船上で病没した。《非常に謹厳な人で、稀に見る人格者》(『発展史(下)』28頁)とされている。このように当時、日露戦争従軍者が多くこの事業に携わっていた。
 西舘繁太郎はジュキア線の汽車の中で、偶然に桂人会会長の中村伊作に出会い、「セッチ・バーラスは見込みない」と聞かされ、驚いた。「もうロッテが買ってあったから、とりあえず行ったが、辺りはお椀を伏せたような山ばかり。あれじゃ何にもできない、こりゃダメだとなり、そこを出た」と振り返る。
 中村伊作は佐賀県佐賀郡出身で、第3回移民船「厳島丸」で渡伯し、1913(大正2)年11月に桂に入植した草分けだった。開拓の辛酸を舐め、当地に於ける米作とサトウキビ、ピンガ栽培の筋道を付けた創始者であり、産業組合理事長まで務めた。『二十周年写真帳』には1932年時点で《所有地二百三十二町歩、甘蔗園三町歩、十二町五反を作付、千二百俵の収穫の見込みなり》(28頁)とある重鎮だ。
 ほかも視察したが、父・繁太郎は最終的に、最初に出会った中村を頼って桂に行くことに決めた。組合が精米所を作った時の理事長で、人望のある中村の所で、3年間、米作りの小作をして農業を覚えた。(つづく、深沢正雪記者)

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