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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇大戦編◇ (89)=なぜかイタリア系退去不要?!=「日本人は全て失ってしまった」

ニッケイ新聞 2013年12月12日

「イタリア移民へは今のところ処置なし」と報じるトリブナ紙43年7月14日付け記事

「イタリア移民へは今のところ処置なし」と報じるトリブナ紙43年7月14日付け記事

 トリブナ紙43年7月9日付けを見ると、海岸地帯からの強制退去命令を出したのは、聖州保安局(Ordem Politica e Social、ドップス)の専務ヴィエイラ・デ・メーロ少佐、アフォンソ・セルソ・デ・パウラ・リマ理事で「国家治安」を理由としている。潜水艦攻撃に味方するスパイ活動防止を目的し、《数日間のうちに強制退去は完了》との性急さだ。
 ヴァルガス独裁政権時であり、リオが任命した人事だろうが、ほんの11年前に「護憲革命」という名の元に中央政府へ反乱を起こした聖州だけに、中央政府とは微妙な距離感があったとも推測される。にも拘わらず、中央が資産凍結令、州が敵性国人強制退去と連動した政策を打ち出した。
 1943年7月10日付けトリブナ紙によれば、9日時点で4千人が聖市の移民収容所に集められていた。同11日付けリオ発の論説「内なる敵、聖州の良例」では、首都リオの主要紙は聖州のこの処置を「国家の模範例」と大きく報じ、褒めたたえたと伝えた。今まで中央政府のあり方に批判的な態度が強かった聖州が、率先して「quinta-coluna」(第5列=スパイ)に厳しい対処をしたことが反響を呼んだ。《幅広い国民に称賛をもって受け入れられた聖州の処置は、国内で模範にすべきものであり、顕著にドイツ系の多い南部3州でも当然のものだ》と締めくくられている。
 中央政府寄りの論調の背景には、長い間、リオとの船舶交易で栄えたサントス市だけに、内陸部の聖市の新聞などに比べ、より中央の意向を汲んだ世論が形成され、新聞でも幅を利かせていた可能性があるだろう。
 同11日付けには、聖州海岸地帯の海から10キロの地域は、電燈が海から見えないように窓にカーテンをかけるなどの処置が、国務省から市民に義務図けられた。まさに戦時体制だ。
 14日付け同紙には米国が伯国珈琲の輸入枠を追加で60万袋増加する発表があったとの、ニューヨーク発ユナイテド・プレス配信記事が掲載された。《近いうちに200万袋増えると期待される》とまである。米国がコーヒー買付という餌をちらつかせて、ブラジルを思うように導こうとしていたかのようだ。
 14日付けトリブナ紙には同じ枢軸国側であるはずのイタリア系に関しては《習慣、顔などが、我が町の公衆性と大部分が重なるため、ドップスによる何の処置もないだろう》と報道している。この時点で強制退去という処置は「枢軸国側」に対する政治的区別ではなく、実は「人種的な差別」的な動機が強かったことが伺われる。
 人文研年表には43年10月の項に《日系資本の工場・商店・農場・銀行など敵性資産として「清算」の処分になるもの続出》とある。「ドイツ軍」からの被害を、「枢軸国側」というだけの日本移民の資産で補った形だ。しかも同じ枢軸国側でもイタリア移民には何のお咎めも…。

「海興を閉鎖するにあたって最後の集まりで撮影したもの」(吉岡初子談、写真所蔵も。1942年)

「海興を閉鎖するにあたって最後の集まりで撮影したもの」(吉岡初子談、写真所蔵も。1942年)

吉岡初子の父牛越(うしこし)三男は1917年に渡伯、最初から海興職員として働いた。海興が資産凍結、さらに清算という憂き目に直面した。土地は入植者が個々に購入していたから取られなかったが、頼りにしていた海興自体はなくなった。
 「日本人はすべてを失ってしまった」——閉鎖の時、そんな気分が漂っていたという。結局、「父は農業を始めてバナナ、お茶などを作るようになった」という。
 南米銀行もコチア産組もトップをブラジル人にして戦争をなんとか乗り切り、戦後に資産凍結解除された。でも海興の場合は清算されてしまった。臨戦態勢だった海岸部ゆえの厳しい処置だったのかもしれない。(つづく、深沢正雪記者)

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