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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (97)=続々と生まれる日系政治家=転機となった1960年前後

ニッケイ新聞 2014年1月7日

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写真=郡会議員当時の柳沢嘉嗣ジョアキン、那須野秀男、前地豊(写真はみな『50周年記念写真帳』13頁)

イグアッペ植民地と呼ばれた地域(桂、レジストロ、セッテ・バーラス)のうち、レジストロは1944年に市政を布き、続いてセッテ・バーラスもレジストロから59年に独立した。このように、日本移民が造成した一植民地から複数の市が生まれた例はほかにない。そして、この地域からは戦後、大量の二世議員が生まれた。最古参の植民地ゆえの現象だろう。

51年に柳沢嘉嗣(よしつぐ)ジョアキンは桂植民地を出て、イグアッペの町に移り住んだ。ピンガの販売店を作るためで、家族は桂に住み続けた。ジョアキンは「51年、サンパウロ市までようやく山越えの車道が開通したが、まる一日かかった。レジストロを通ってピエダーデ、イビウナ、サンパウロだった。僕はその頃に車を買ってね、サンパウロまで野菜やバナナを運んだよ」。1955、60、64年の3期、イグアッペ郡会議員。73年からイグアッペ農村協会会長などを歴任した。

桂にとって1960年前後が一つの転機だった。「でも道路が開通すると、どんどん桂から出て行くようになった。60年頃には10家族ぐらいに減っていた」。桂からまずイグアッペ、そのあとレジストロや聖市へ移っていった。

1960年にはイグアッペ日本人会も生まれ、ジョアキンはその創立者の一人になった。市から現在の会館が立つセントロの土地を提供してもらった。「郡議時代にビグア街道のプロジェットを出したんですが、実は町の人には反対が多かった。特にブラジル人には『自分の商売が減る』と考えている人が多かったから。でも僕は町の発展のためには不可欠だと考えた」。ビグア街道はイグアッペから聖市方向に向かう道で、ジュキアとミラカツの間にあるビグア付近につながる。

ビグア街道はイグアッペ市長に就任したコロネル・ジオギーニョ(Colonel Diogo Martins Ribeiro Junior)の発案で1937年7月27日に定礎式が行われてイグアッペ側から工事が始まり、戦争を挟んでビグアまで開通したのが62年だった。「イグアッペには農業学校があった。レジストロにもなかった。日系人のほとんどは農業だったから、わざわざよそから来てここで勉強した日系人もけっこういた」

一方、レジストロ市議を見ると14人程度の市議のうち常に2人ほどが日系市議だ。多い時で4人が一度に入ったこともある。戦後最初の1948年にはマツザワ・マシト・ギド、前地(まえじ)竜吾(りょうご)。その後50年代には田代栄一(たしろ・えいいち)、伊藤パウロ、大室克己(おおむろ・かつみ)、春日今朝男、前地豊(まえじ・ゆたか)が当選した。

60年代には山崎良三、隅田弘、浅沼カズオ、原村サユオキ、70年代には那須野秀男、岡本フサジ、ハセガワ・タノウエ・フェルナンド、80年代には深町ツメレッチ、近岡ケンジ・マノエルらが活躍するようになる。中でも近岡は4期(89、93、97、01年)も務めた同市最長期の市議記録保持者だ。

その他、曲尾フロリアーノは1964年にセッテ・バーラス副郡長に当選。1969、1972年までセッテ・バーラス郡長を務めた。隣接するエルドラード郡でも宮下智明(レジストロ生まれ)が群議をした。それ以外にもいるだろう。

レジストロ出身で最も国政にかかわったのは野村丈吾だろう。51年に転住先のマリリアで市議なり、63年に聖州議に初当選、71年に連邦下議に当選した。父酉二がレジストロで米作をし、本人はバストスで生まれた植木茂彬(元鉱山動力大臣)も関係者だ。野村、植木、宮下、春日、柳沢、曲尾、那須野、大室らがその代表だが、長野県子弟が多い点も特徴といえる。(つづく、深沢正雪記者)

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