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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=48

 一九八〇年代のハイパーインフレ時代は遠い昔になってしまい、二〇〇五年現在は一ドルに対して一レアル七九センターボスである。ドル値はどんどん落ちてゆくばかりの気配で、上がる気配は見えない。なぜドルがこの国でこうも下落するのか理解できないが。
 「せめて三レアイスくらいに落ち着いてくれるとやり易いのに」というのは輸出業者の言葉である。
 私の次男の嫁の実家はガーベラ等の切花専門の花卉業で、輸出に関係のない家族であるが、あのインフレ時代に作ったプール付きの大きな平屋を構えている。このような話を思い出すとき成功者と不幸にも脱落した者が、あのインフレに左右されたと考えざるを得ないのである。いや確かにそうだろう。
 画家であった夫や、その友人、知人の画家の生活にも、このインフレはおおいに影響した。一九八〇年代のインフレの最中には、個展を開催すれば、どの画家も良く売れたことを思い出す。一九九〇年、大統領就任式を迎える前夜にコロール大統領は、コロールプランと名付けられた銀行貯金凍結と物価凍結をやってのけ、数々の経営上の破綻を招いて悲劇を産んだ。このコロールプランによって、大きな打撃を受けた独立青年がおり、また順調に伸びた青年とその花嫁の一家もあったはず。どうにか持ちこたえていても、やがてじわじわと耐えられなくなってしまった花婿たちもあったと考えられる。

  焦げつきの三角パンの塩強し明日よりこの銭旧貨幣となる

 画家の仲間にも、さっさ日本へ引き上げる者、表立てて言わないが出稼ぎに出たという噂の者、子供達やリタイヤしたサラリーマンに教えはじめた者などがあり、画家一本でやっている人は数えるほどになった。私の夫は二〇〇一年九月に、画の売れないこの苦しい時代から逃れるように他界した。あるいはそれは幸せだったと言えなくもない。毎月の支払いが出来て月に一~二度のゴルフが出来て、年一度の外国旅行ができれば、それで幸せと思える人であった。月々の生活費に脅えていた夫の遺影は、
 「ママ、こっちは良いよ、生活費も税金も追いかけて来ないから」と言いたそうである。 

 サンパウロ市から七十キロほど離れたサンロッケ市に、花嫁の彼女自身が出稼ぎをして、ようやく安定した生活が出来るようになったコチア青年花嫁で鹿児島県出身の岡山弓子がいる。彼女は一九六九年、二十三歳の時に近所の私が姉妹のように親しくしている山田美紀子他数名の花嫁とブラジル丸で嫁いで来たとのことだ。航海中に岡山弓子と山田美紀子はことのほか仲良くなり、それぞれサンパウロの夫の元に落ち着いてからも、実家のない花嫁の例にもれず、
 「遠くの親戚より近くの他人で、二人の交際は続いたのよ」と美紀子は話す。
 一九八〇年代の終わり頃のことだったか、岡山弓子の夫が、日系の南米銀行からお金を引き出して通りに出た所で強盗に襲われ、生活費だけでなく農業経営にかかわるお金まで盗られた。友人の山田美紀子は大量のニンニクを岡山弓子から預かり、売り歩いて彼女の生活を助けようとした。私は山田美紀子を助けようとして、フォルクスワーゲン社のカブトムシと呼ばれていた車を運転して遠くに住む友人に売り歩いたことがあった。

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