ホーム | 文芸 | 連載小説 | ガウショ物語=シモンエス・ロッペス・ネット著(監修・柴門明子、翻訳サークル・アイリス) | ガウショ物語=(12)=底なし沼のバラ=<4>=馬ごと深みにはまり込む

ガウショ物語=(12)=底なし沼のバラ=<4>=馬ごと深みにはまり込む

沼にはまり込んだ人(イメージ図)

沼にはまり込んだ人(イメージ図)

 沼に投げ出された娘は、たちまち、馬の脚に掻きまわされてぶくぶく泡立つ黒い泥沼に呑み込まれてしまった……。そして、その跡を標すみたいに、髪に挿されていた真赤なバラが浮かんでいた。
 同じように拍車と鞭を当てられながら疾駆して来たシッコンの馬も、その勢いで、前の馬の一尋(ひろ)半ばかりのところに嵌(はま)り込んでしまった。体はすっぽりと泥に埋まり、鼻先と耳だけを出してもがいていた。
 シッコンは懸命に抜け出そうとしたが無駄だった。拍車に草の根が絡まったらしい――拍車を足にとめる皮ひもは丈夫にできていた――その上、片方の足は必死にあがいている馬に蹴られて折れているらしい。体が次第に沼深く吸い込まれていくのを感じた……。
 こんな騒ぎの後、何ごともなかったかのように、辺りには、もと通りののどかな光景が広がっていた。陽はいつものように昇り、空には白い雲が流れ、小鳥たちはここかしこと飛び交い、……丘の上の方で雄鶏が啼き……犬の吠え声がする。遠くでは……鶉の鳴き声……近くでは、蛙がケロケロと騒いでいた……。
 胸まで泥に埋まったシッコンがいなかったら、そして、その先に真赤なバラが浮かんでいなかったら、まるで何事もなかったかのようだ。
 あわれな馬は、首を伸ばして鼻先だけ水面にだし、やっとのことで呼吸している。荒い息が太い口笛のような音をたてている。馬の主はといえば、泥しぶきで汚れ、大汗をかいて、彼を馬の背に繋ぎ留めているいまいましい拍車から逃れようと、ますます焦った。馬は、少しずつ……少しずつ……沈んでいく。もがき暴れるたびに、沼全体は揺れうごき、泡立った。
 少しの間に、シッコンは脇の下まで沈んだ。馬の姿はもう見えず、せわしい息遣いもない。息絶えて、柔らかい泥濘に身を任せてしまったのだ。拍車は……あのいまいましい拍車は、そのままだった!……
 身動きのとれないその姿勢のままで、シッコンはマリア・アルチナを呑み込んだ穴の辺りを見つめていた。ドロドロした黒い水の面には、枯葉や踏みにじられた草や、小枝が漂い……それらの中に、泥沼に沈んで死んでいった娘――浅ましい情欲の贄――の髪から解かれたあのバラが、清らかに、生き生きと浮かんでいた。
 時は静かに、急ぐでもなく、ゆっくりでもなく流れていった。
 ところでお前さん、覚えているかね?……
 前にも言ったように、あの時、屋敷には娘と祖母さんのほかに黒人女――タナジア母さん――が残っていた。女は何かただならぬ気配を感じてね、納屋に隠れて様子を窺っていた。家から飛び出してきた二人が、まるで獲物とそれを追う猟師みたいに、馬に乗って駆け去るのを見ると、タナジア母さんは納屋を抜け出して台所へ行った。
 そこには、大奥様が倒れて……すでに息絶えていた。お嬢様は逃げていったのだとすぐに気がついた。シッコ・トリステの家へ行って、マリアノ旦那に知らせようと思った。沼地の上の方にある泉のそばを通るのが一番の近道だ。坂道を下り、岩場を抜け、小道を曲がったとき、シッコンに出くわした。
 タジアナ母さんは腰を抜かさんばかりに驚いた……。しばらくは、呆然と見ているだけだったが、ようやく口を開いた。
 「お、お、お前さん!……いったい何ていうことをしてくれたんだい!……」
 悪党はわめいた。
 「失せろ!クソ婆あ!みんなにしゃべってこい!」
 「おお!まァ!……何てことを!」
 言い捨てて、坂道を、片足を引きずりながら、大急ぎで上っていった。
 そのころ、昼飯時になったので、黒人の牧夫らが家に帰ってきた。そして、すぐに馬が一頭しか繋がれていないことに気がついた。家は開けっぱなしで、妙に静かだ。台所の窓から中を覗いた一人が……十字を切りながら大声で仲間を呼んだ……。
 そこには、斧の背で頭をわられた大奥様が……火は消えているし、ラードは冷えて白く固まり、ベイジュは冷たくなっていた……。そして、死人のスカートには、子猫をつれた赤毛の猫が、気持ち良さそうに腹を上にして眠っていた。
 タジアナ母さんの名を呼んでみた……叫んだ……探し回った……だがどこにもいなかった。中に小狡い男がいて、逃げようと言い出した……捕まって酷い目にあうより、ずらかって卑怯者呼ばわりされる方がましだ……きっと事件の犯人にされるからと。
 しかし、もっと分別のある男が言った。
 「つまらんことを言うな。とにかく大旦那に知らせよう……」
 何人かが見張りに残り、他の者は手綱をつかんでトリステの農場に馬を走らせた。着くなり、まだ恐怖に震えながら、見てきたことを語った。
 まるで大砲をぶち込まれたような騒ぎだ。上へ下への大混乱さ。女たちは泣き叫び、男たちは拳銃を腰につけ、鞍もつけない裸馬に跨って駆け出した。マリアノはキチガイみたいになって先頭を駆けた。
 わしもその中の一人だった。疾風のように馬を走らせ、到着するなり、黒人の使用人たちが言ったとおりの光景を目にした。マリア・アルチナはいない。タナジア母さんもいない。ただベランダには糸がほつれた毛糸の玉が散乱し、机は引っくり返り、大きな裂け目のある真新しい上着が落ちていた……。

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