ホーム | 文芸 | 連載小説 | ガウショ物語=シモンエス・ロッペス・ネット著(監修・柴門明子、翻訳サークル・アイリス) | ガウショ物語=(14)=底なし沼のバラ=<6>=懐かしさとは痛みのない痛さ

ガウショ物語=(14)=底なし沼のバラ=<6>=懐かしさとは痛みのない痛さ

 が、次の瞬間、ゴボゴボという音を残して、沸き立つ泥の中に消えてしまった!
 考えてもみな、お前さん。目の前で、投げ縄の綱の半分くらいの距離だ、すぐそこでそんな事が起きているのに、だれも手を貸して助けてやることが出来なかった……。
 みんなの口から出た言葉は、「おお、イエス様!」だけだった。
 沼はあらゆる隙間から泡を噴きだしていた……もし、これが透きとおった水だったら……とんでもねぇことだ!……
 少しずつ……ゆっくりと……伝道師は両腕を広げた、まるで三人の魂が天に昇っていくのを見極めるかのように……、そして、明るい空に大きく十字を切った……。それから、それぞれ違った理由で、まったく同じように死んでいった三人の大きな墓穴の縁に膝まづいて祈りはじめた。
 集まっていた人々も、その周りに膝まづいた……みんな沼地の方に目をむけ、手を合わせて、サルヴェ・レギナ――聖母マリアに捧げる祈り――を唱えた。その悲痛な、傷ましい、心からの祈り声は次第に高まって、まるで獣たちまで鎮めるように、平原に広がっていった。
 じっさい、その祈りの間、犬一匹吠えなかったし、小鳥は鳴かず、馬もぴくりとも動こうとしなかった!……。
 祈りの一節から次の一節への合い間に聞こえるのは、シッコンの母親のむせび泣きとジェリバー椰子の枯葉にぶつかる風の音だけだった。
 祈祷が終ると、みんなは祭の行列みたいに列になって、もう一人の婆さん、つまり頭を砕かれた婆さんの妹を屋敷まで連れて帰った。その晩は通夜で、次の日の朝、坂の下の沼のそばに埋葬された。
 伝道師の祈祷のあと、四人の霊の安らかな眠りを見守るためにと、わしらはカンバラの木で作った大きな十字架をそこに立てた。
 その後、それぞれ自分の日常に戻っていった。
 何年か経って、わしはこの辺りを通ったことがある。あの家を見るのは辛いことだった。黒人奴隷たちは解放され自由を手に入れると、どこへともなく去っていった!……。
 女が二人残った。タナジア母さんとその女主人、あの婆さんだ。不憫に思ったマシャード旅団長が、自分の家に引き取って面倒をみていた。
 あの屋敷は放ったらかしにされ、荒れ果てていた。雨漏りはひどく、壁の一角は崩れ落ち、扉も倒れ落ちたままで、野良犬どもが住みついていた。垂木の下にはコウモリが巣を作り、ベランダにはフクロウがとまっていた。納屋は風に壊され、流れ者の旅人は柵を引き抜いて薪代わりに燃やし、牛どもは農園を住処にしてしまった。楽しく満ち足りていた家は姿を消した……。
 人の手で造られたものすべてが崩れていき、わずかに形をとどめているばかりだ。蔓草や薬草のカルケージャがはびこり、棘のあるグラバターが繁茂しているなかで、ウンブーの木だけが、そんな時の流れに逆らって残っていたが、まるで、夫婦円満だった男がやもめになったみいたいに元気をなくしていた……。
 農園は荒廃していた……荒廃して……まるで見知らぬよそ者を見ているかのような寂しいところになってしまっていた。
 周りの木々までが、訪れる人に「わたしを植えた人はどこにいる?……」「わたしを植えた人はどこにいる?……」と尋ねていうような気持ちにさせる、そんな場所になってしまった。
 ほれ! 見なされ、お前さん、あの下の方を……どうだ?見えるかね?……あそこの椰子の木立やグアバが並んでいるところだ。
 あそこに、あの怖ろしい日に墓場となってしまった沼があるんだ。あの朝はいろんな不吉な前兆があった。キツツキがまるで泣いているような声で啼き交わし……犬どもは穴を掘り……黒い魔女 が、だれも気づかれことなく寝間に入り込んでいた……。
 あの古い出来事を思い出すと、今でも胸が痛む。信じてくれない連中もいるんだが!……。
 十字架は、とっくの昔にどこかへ行っちまった!……だが、野生になったバラはあそこにある! いろいろな忌まわしい事件があったあの日、泥沼に浮かんでいたバラの枝から根をだしたのが、あのバラの木さ……。
 「どうだ、今度はよく見えるだろう?」
 そうなんだ……いつも色鮮やかに咲いている!まるで沼の底で、今もマリア・アルチナの心の臓の生き血を吸い続けているかのようにな。
 お前さん、ちょっと休まんかね。この老いぼれ馬も休ませたいし、……それに、わしも心を静めたい!……。
 ああ、懐かしいなあ!……シッコ・トリステの農場で、わしの唄を聴かせてやったあのモレナ娘が、まだ目の前にいるみたいだ……。
  お前の耳にわたし声は
  愛の巣をつくって、唄うのだ……

 「畜生!目に砂が入ったみいたいだ……おまけに、ノドに足枷の綱が引っかかったみたいだ……。ああ、懐かしいなあ!……」
  何とも甘い、ほろ苦い思い出ですよ、若旦那!……
  懐かしさ、それは痛みのない痛さ
  甘くて非情な巡りあわせ
  うわべだけ塞がれた傷口
  蜜の甘さに酔わせる毒……(底なし沼のバラ・おわり)

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