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丹下セツ子さん
丹下セツ子さん

怒涛の旅回り3カ月=「沢竜二と竜劇隊」に参加=丹下セツ子さん振り返る

 大衆演劇役者・丹下セツ子さん(75、東京)は4月8日にはNHKラジオ深夜便に「明日への言葉~我がブラジル旅役者人生に悔いなし~」の題名で40分に渡って出演した。今回は異例の半年も日本に滞在し、うち「計3カ月もどさまわりしてきたのよ。こんなことしたの生まれて初めて。まあ、凄かったわ」という丹下さんからその時の様子を詳しく聞いた。

見聞劇場のこけら落とし公演の様子(見聞劇場提供)

見聞劇場のこけら落とし公演の様子(見聞劇場提供)

 例年11月後半に日本に里帰りし、1月初めに帰伯する。その間、丹下さんと親交の深い大衆演劇座長の沢竜二さんに誘われ12月半ばに浅草公会堂で「座長公演」に参加するのが恒例だったが、今回は特別に長期地方公演にも参加した。「こんなに長いこと日本にいたことないわよ」。
 昨年末は、まずは12月最初の頃に佐渡島で10日間の夜のみの「沢竜二と竜劇隊」公演に参加し、「夜のショーだけで素晴らしいホテル。最高の経験だった」と懐かしむ。そして座長公演の折、沢竜二さんが長年の大衆演劇への貢献を評価され大衆演劇の殿堂ともいえる同公会堂の路面に名誉ある手形を残した。
 沢竜二さんが青年時代を過ごした福岡県の日田市の劇場から招待され、沢竜二さんが殿堂に手形を残した記念の里帰り公演に飛行機で客演した。
 2月半ばからは山形県の山村のホテルで15日間、竜劇隊でも客演し、「立派な旅館でね、お客さんに喜んでもらえて役者冥利に尽きる」という経験をした。
 2月末、山形公演の現場から8人乗りのバンにのり、舞台の大道具を載せた10トントラックと共に、福岡県田川の公演会場まで、なんと1500キロを若手劇団員と共に車で移動した。
 「富山で一泊したけど、丸二日間、48時間で一気に移動したのよ。到着したのは夜中の11時」。3月1日から1カ月間の福岡県田川にある見聞劇場(けんもんげきじょう)のこけら落とし公演の始まりだった。
 「一カ月、昼夜替えよ。普通は毎日違う演目なのよ。それを昼夜別のものをやるの。毎日昼夜2公演で計60回、毎回違う劇と踊りを披露するわけ。そんなにレパートリーがある劇団なんて普通ないのよ」。
 元々は炭坑町として栄えた町で、九州における大衆演劇のメッカのような場所だという。「初日には代議士とか、県会議員とか偉い人がいっぱい来て、紅白餅撒いた」。通常は13人ほどで演じ、千秋楽には20人で盛大に幕を引いた。
 「16歳で役者になって、浅草の常盤座で藤洋子劇団にはいって剣劇とかやってきたけど、1か月半も毎日やりっぱなしは初めての経験。朝起きたら稽古して昼公演、それが終わったら別の劇を稽古して夜公演。もう最後は足腰立たないんじゃないかってくらい。爺さん役、ばあさん役、医者の役、おっかさん役いろいろよ。最後の一週間は、あと3日、あと2日って指折り数えてたわ」と振り返る。
 さらに「でも沢さんが絶対弱音を吐かない強い人。あの人は宇宙人だよ、ほんと。昔、伴淳三郎さんに可愛がってもらったけど、伴淳さんもそうだった。本物の役者ってのは病気になっても絶対休まない。立ち止まったらダメになると思っているじゃないからしら。あれぐらいの根性がないと座長にはなれない」
 昭和1964年に有名女優の母・丹下キヨ子に呼ばれて24歳で渡伯し、母が帰国した後も残った。渡伯10年後に「丹下セツ子劇団」を結成し、「どこにいっても大成功。こんなに歓迎してもらえるならブラジル全部を回る」と旅回りを始めた。「こっちでも数えきれないぐらい地方公演したけど、だいたい一週間、せいぜい2、3カ所」と嵐のような日々を振り返った。

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