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郷土会のみなさん
郷土会のみなさん

約50人が昔話に花咲かせ=第29回サントポリス郷土会=水田会長「来年は盛大に」

 まず笑顔で握手する。でも名前が分からない。「お名前、何でしたっけ」「思い出した!」と気付いて喜び合う。会場のあちらこちらで、そんな場面が見られた。サンパウロ州ツッパンから北35キロにあるサントポリス植民地のゆかりのある人でつくる『サントポリス郷土会』の第29回昼食会が4日、サンパウロ市の秋田県人会館で行なわれ、約50人が集まって昔話に花を咲かせた。現会長の水田清さん(61、三世)は、「毎年のように開催して来年は30回目。盛大にやりたい」と意気込んだ。

 サントポリス植民地は元々、ノロエステ線の土地が痩せてきたために、新しい土地を求めて移動した日系人によって、1930年代に開かれた。非日系人が経営する製材所が所有していた3千アルケールの土地の9割を日系人が買ったことから始まった。
 「活気のある町でね。日本語を話す人ばかりで、まるで日本にいる気分だった」と梅田清さん(81、二世)は当時の雰囲気を説明する。
 「初めは米が主作で、棉や落花生も加わった。平均的な農家で10アルケール持っていたよ」。小さな町だったが精米所が3、4軒あり、農産物の仲買人も10人はいたという。
 「父親は10年たったら帰ると言っていたけど、その前に戦争になったからね」。戦時中は塩や石油が不足し、外国人である父親たちは、他の町に行くだけでも警察の証明書が必要だった。
 数百の日系家族が暮らしていたが、その後「子どもに学問をつけさせるため出聖した。「もう20家族ほどしか残っていないのでは」と町の消息を伝える。
 サントポリスを出てサンパウロ市で50年タクシー運転手を続けた船越岡次郎さん(92、福岡)は、「当時はスポーツが楽しかった。野球、剣道、陸上と、仕事が無い日曜や祭日に試合をした。初恋もサントポリスだったな」と笑った。
 その話に「周りの青年たちは、みんな指をくわえて羨ましがったもんだよ」と言うのは、1932年に渡伯した渡辺政男さん(88、福島)だ。養蚕で失敗した両親が、親戚からブラジルの将来性を聞きつけて渡伯を決めた。最初はビリグイ近郊のアレグレ植民地のコーヒー園に入り、17歳の頃にサントポリスへ。
 「電気は無いし電話も町に一台だけ。でも農家だったから食べるのに困らないし、強盗も少なかった」と懐かしんだ。
 豊田美智子さん(73、二世)は、「家では日本語だけだったから、9歳で学校に行ったらポ語が全く分からなかった。カフェーの実を拾うのは大変だし、夜になると外は真っ暗でヘビもたくさん。今は極楽よ」と笑った。
 米、棉、コーヒーなど40アルケールの土地を6家族で運営していたという近藤良治さん(83、二世)は、25歳で結婚してからサントポリスへ。「テレビも何もなかったから、愛染かつらや支那の夜とか、映画が一番の娯楽だった」と語った。
 賑やかな昼食会が終わって帰る人たちは「来れてよかった」「また来年会おうね」と言い、満足した顔で手を取り合っていた。

 

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 驚いたことにサントポリス郷土会の水田会長は、義母がサントポリスに住んではいたが、自分はサントポリスに行ったことが無いという。それでも郷土会の会 長を引き受けた理由を、温和な笑顔で教えてくれた。「会員が楽しそうに昔の話をする。それを見るのが嬉しいから引き受けた」というのだ。コラム子が住んで いた日本のマンションでは、隣の住人の顔も知らなかった。未訪問の土地の役職を引き受けるなど想像したこともない。また一枚、目から鱗が落ちた一日だっ た。

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