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会館を背に出席者全員で記念写真
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福博よ、永遠なれ!=文化村入植85周年祝う=1931年に開拓開始=節目に200人集う

 1931年3月11日の入植から85年――。知識人が住み、文芸活動が活発な「文化村」として名を馳せた聖州スザノ市の福博村(Associacao dos amigos do Bairro das Palmeiras)が入植85周年を迎え、20日に同村会館で記念式典を行なった。およそ200人の村民らが祝福に駆けつけ、文化村の節目の年を祝った。

乾杯する役員、来賓ら

乾杯する役員、来賓ら

 養鯉業で有名な田辺治喜副会長の司会で記念式典が始まった。日伯国歌斉唱に続き、上野ジョルジ会長が挨拶で「困難に直面しても前進させていくのが我々の責任」と決意を語り、式典開催に喜びを見せた。
 来賓として訪れた汎スザノ文化体育農事協会(ACEAS)の山本善左門会長は、「日本式の教育によって発展した福博。『三つ子の魂百まで』ということわざにある通り、子どもたちの教育によって未来につないでほしい」と願いを込めた。
 文協の山下譲二副会長は「継続は力なり。85年間、ずっと結束して発展を遂げてきた。今後も団結を続けてほしい」と話し、援協の菊地義治会長、スザノ市議会関係者らも祝辞を送った。
 在聖総領事館の中前隆博総領事は、「勤勉さを持って開拓に尽力。養鶏を始め蔬菜などで発展し、福博の地位は確固たるものになった。日系企業もあり経済界にも貢献した。『ゲートボール発祥の地』という石碑も拝見した。剣道などスポーツ分野の取り組みも活発で、日伯相互交流の貢献に改めて敬意を表したい。日本人の文化や精神を受け継ぐ村の存在は誇らしい」と称えた。
 昼食の時間を過ぎ、出席者の内、最高齢にあたる杉本正(まさし)さん、会長夫人でもある上野眞知子婦人部長らがケーキカットし祝杯。お手製の昼食を堪能しながら日本舞踊、歌謡ショー、手品などのアトラクションを楽しんだ。

ロウソクの火を吹き消す(左から)上野会長、中前総領事、最高齢の杉本さん、上野婦人部長

ロウソクの火を吹き消す(左から)上野会長、中前総領事、最高齢の杉本さん、上野婦人部長

 チエテ移住地から福博村に移り住み50年、現在はスザノ市内に暮らす松本正義さん(94、山口)は、「文化村に魅力を感じ知人を頼って引っ越した。よそから来た我々にも良くしてもらって、この土地には大変な恩がある。養鶏業を教えてもらい、子どもらに教育を受けさせることもできた」と感謝の言葉を並べた。「今は街に引っ越したが、治安の悪さだけが気がかり」とも語った。
 奥ソロカバナ、アルバレス・マッシャード出身の渡辺ますえさん(80、二世)は、「スザノを経て福博に嫁いだ。この会館を建てるときも青年部としてお手伝いした。あの頃が懐かしい。女性陣はレンガ運びとか、台所でコーヒーの準備を任された」としみじみ思い出し、「街へ出て行く人も多いけれど、私にとっては気候が良くて過ごしやすい場所」と笑顔を見せた。
 安楽仁郎さん(84)、安楽まさ子さん(80、ともに二世)夫妻は、福博に移り住んでまだ5、6年ほどという。「隣のチジュコ・プレット日本人会が解散したのがきっかけで、福博へ引っ越した。村会行事に婦人部活動に夫婦で楽しませてもらっている」と笑った。
 式典プログラムには、大浦文雄顧問(91、香川)の記念講演も組み込まれた。「福博村前史」と題し、入植以前の歴史についても深く語られた。



慰霊祭で400人を追悼=高齢者53人の敬老表彰も

献花、献灯を持ち入場する子どもたち

献花、献灯を持ち入場する子どもたち

 記念式典に先立ち午前10時過ぎから、慰霊祭が行なわれた。丸山実花、丸山きよし、野田エリック、石橋さやかさんが献花、献灯を手に入場、続いて東本願寺の川上寛祐師が入堂した。
 追悼の辞に立った上野会長は、「原田敬太氏の入植をもって開拓が始まった福博。道路はなく、交通の便も少なかった。病に倒れても病院や医者もない。ある者は家族を失い、ある者は志半ばにこの世を去った」と先駆者の生涯を懐古した。
 「そんな逆境の中でも、お互いが協力し合う日系社会を形成して努力を続けた。村に対する今日の評価は、先人の苦労の賜物である」と敬意を示した。「今後はより一層の評価を得るため、村民一人一人が日系人の誇りを持って福博に貢献することを誓う」と先人の御霊に決意を述べた。
 川上導師によって読経が行なわれ、村会役員、来賓、遺族らが順に焼香。400人といわれる先人の冥福を祈った。

順に焼香する村民ら

順に焼香する村民ら

 福岡出身の川上導師は法話で、「01年の70周年式典だったか、『一世が減り街に出る人も増えている。村外に出た出身者が、胸を張れるような場所にしたい』という挨拶があったのを覚えている。今もその志は大切だ」と話し、「文明発達により便利な時代になったが、手間ひまをかけた『アナロジコ』の精神を大切にしてほしい。先人の残した財産に恩を感じつつ、日本人の魂、精神、文化を、命ある限り子孫に伝えてほしい」と願った。
 法要後は敬老者の表彰も行なわれた。75歳以上の村会員を対象に53人を表彰。中島静雄さんが代表謝辞に立ち、「これからも充実した未来へ向けて、さらに発展することを願う」と後進を激励。敬老者は会館の外で、来賓や全出席者と記念写真に収まった。


《敬老者一覧》

渡辺ますえ、林義宣、綾俊一郎、関根正男、黒木ふく、寺尾芳子、古賀正雄、中川清子、土井愛子、土井博、原田芳郎、渡辺正行、中村敏和、中村洋一、大浦千代子、大浦文雄、佐藤直江、山川弥世野、山本栄、中村とみえ、坂東のぶ子、渡邊勇、千葉静江、比嘉秀男、石橋亀恵子、島田すみえ、島田一郎、島田はるよ、石橋ふみお、家入しず子、斉藤武兵衛、高尾静子、佐藤明信、金村美津子、杉本君江、杉本正、杉本鶴代、田村静香、荒木芳香、田邉すみ、植松靖子、植松周子、安楽まさ子、安楽仁郎、本廣繁正、田中みつ、中島静雄、松本正義、松本はるえ、長友久子、矢馬いちろう、矢馬かつえ、亀岡けんじ(75歳以上、敬称略)

福博村入植85周年記念講演=大浦顧問、入植前史語る=密航伊人に始まる村の歴史=「大木は全て見ていた」


会館脇にたたずむ1本の大木。入植当時から残る唯一の原始林という

会館脇にたたずむ1本の大木。入植当時から残る唯一の原始林という

 入植85周年を記念して、大浦文雄顧問が特別講演を行なった。テーマはすばり『入植前夜』。30分に及ぶ講演では、これまで明かされなかった入植以前の歴史が語られた。概要を掲載する。

 会館横に一本の大木があります――。福博はご存知のように1931年3月11日、原田敬太氏らが入植し始まった。しかしその前に土地を求めるはずです。その頃の原田さんの日記があるので、まずそれを読んでみましょう。彼は入植の1カ月ちょっと前、2月1日に初めてスザノを訪れました。
 「朝8時、自動車でスザノを行く。雨中、処女林が残されているのに驚く。心機一変、痛快だった。午後1時帰り」
 処女林とはブラジル語で言う「マッタ・ヴィルジェン」。この一帯は原始林が随分あったんですが、その生き残りが、会館横の一本であります。お帰りになる時に、ぜひ拝んでいただきたい。

講演を行なった大浦顧問

講演を行なった大浦顧問

 世の中の流れ、コロニアの流れを黙って見ておられる。もし話すことができれば…。しかし木は黙して語らず。代わって私がこうしてお話ししているわけです。
 日記にあるように、処女林の存在が決め手となって「よし、ここへ日本人の集団地を作ろう」となった。2月6日の日記には次のように記されています。
 「朝10時、ロベルト宅でめでたく契約を済ます」
 初訪問から5日後に契約を交わしたことになります。ロベルト・ビアンキ(Roberto Bianchi)という者はこのあたり、400アルケールの土地を所有する大地主だった。彼の土地を分割したのが村の始まりです。

 

 


伊国出身の大地主=ロベルト・ビアンキ

 そんな大地主ロベルトとはどんな人物だったのか。そして、彼を紹介した日伯新聞社長の三浦鑿とはどんな関係であったか。不幸にしてどちらも故人。両者の関係は不明です。しかしロベルトが、なぜそんな多くの土地を持っていたかは、いくつかの資料が残されています。
 1875年、イタリア生まれ。興味深いことに12歳で密航者として渡伯。1908年の日系移民も運んだサントス―ジュキア線の列車に乗って、リベイロン・ピーレスの近くに落ち着いた。
 彼は若くして商才があったようで、初めの商売が養鶏業だった。福博も30年前までは養鶏村とも言われたが、現在は伊野一彦さんの一軒だけ。ロベルトもまず養鶏を始めたことは、非常に興味深い事です。
 そのうちにスザノ市バルエル(Baruel)地区にやってきます。この地は今から300年ほど前、1700年代当たりは、バンデイランテス(金鉱探検隊)がおりました。彼らはサントスから北上して最終的にはミナス州にたどり着きますが、その途中、この近くのモーロ・デ・スインダーラという山などで金を採っていた記録がある。1750年ごろバルエルは、宿場町として栄えたのです。
 そんな中バルエルの近くにも、鉄道が通るという計画が浮上し、だんだんと人が集ってきた。当然、インディオもいたのだが、キリスト教の牧師さんがそれぞれの仲を取り持って上手く共存していたんですね。
 探検隊の英国系人、フランシスコ・バルエルという人が、インディオたちと親しくしていたことに由来し、彼の名がこの地に付けられた。1750年ごろには、主にイタリアとポルトガル人による400家族という大きな部落を形成。隣町で小さな商売をしていたロベルトが、そこに注目しやってきたわけです。
 商才を持ち合わせていた彼は、バルエルですぐに乾物屋を開く。その内にパン屋、肉屋、衣類関係の店舗も展開。地元民らは有効活用できずにいた先祖代々の土地を、ロベルトの店への清算に使っていた。こうして400アルケールという大地主になっていくのです。
 その内に地区初の男子校「エスコーラ・マスクリーノ」がバルエル地区に開校。一時は文化発祥の地となるのだが、1780年ごろになると鉄道敷布が頓挫します。やがてファミリアは散り散りになり、リオへの中央線ができたこともあってスザノ市中心部が栄え、バルエルは廃れていった。
 そんな場所で1931年、原田とロベルトが出会う。ロベルトの所有地はもはや「土地があるだけ」という状態だった。私の想像ですが、日本人の新聞社を訪れ、良い買い手はいないか相談したのではないかと、推測しています。

初期犠牲者は赤子ばかり=幼き霊を慰める慰霊祭

 バルエルに暮らすロベルトの遺族から、「この街で日本人が2人生まれている」という証言を得ました。1912、3年ごろになるという。無縁仏となっていた。また18年から流行したスペインかぜでも、毎日のように亡くなった人がいたようだ。
 62~78年頃、日本海外移住家族会連合会(海家連)の初代事務局長を務めた藤川辰雄さんは僧侶となり、自ら送り出した移民の無縁仏を弔うために全伯を歩いた。65年夏にスザノを訪れ、バルエルの無縁仏に案内した。草木が生い茂る旧墓地で、かんかん照りの暑い中、長い時間読経された。この出来事が福博慰霊祭の始まりではないでしょうか。
 村では61年の30周年に、初めて慰霊祭が開催された。医者も薬もない時代、最も抵抗力のない小さな子どもが犠牲になった。現在400もの方が犠牲になったが、初めに亡くなったのは35年2月28日、開殖者・原田の娘豊子(享年2)。次に8月16日、古賀正信(享年2)。3番目が36年6月13日、実は私の弟で大浦正男(享年1)です。
 奇しくも、その翌年の1937年にコロニア歌人の清谷勝馬は、次のような短歌を詠んでいます。

秋たけし 共同墓地のささやかな 墓標を読むに 全て幼し(『コロニア万葉集』)

 慰霊祭には不便極まりない開殖時代に犠牲になった、非常に小さな子どもたちの霊を慰めるという深い意味があるのです。
 お墓に行けばほとんどが幼子。コロニア全体に共通する非常に重い意味があります。今は便利な時代になったからすぐ病院へ行ける。6カ月で亡くなった私の弟は、母が背中におぶってスザノまで11キロを歩きました。
 例え今後、人口が減り、村が寂れたとしても、ここに日系人がいる限りは慰霊祭を続けてほしい。

今年は創設100周年=バルエル教会も記念年

 バルエル教会は小さな教会(Caperinha)で始まり、ロベルトの資金援助によって1916年、正式に設立。100周年祭を9月に行なうようだ。若い村民もぜひ参加してほしい。
 もう一つロベルトについて。福博は教育村としても知られるが、35年にレンガで学校を作った。「父親たちは泥壁に汚れながら、よくぞ学校を作ってくれた」と、村民同士は喜んでおります。その学校の土地を寄付したのもロベルト。同時にレンガ1万枚も寄付しています。
 どこの移住地創設にも、必ず立派な奇特な方がいたはず。いつかの機会に村から、ロベルトの遺族へ感謝状を送りたいと思う次第です。

福博村会会長 上野ジョルジ=91家族、団結して前進へ

上野会長

上野会長

 時が過ぎるのは早いもので、我が村も85周年を迎えました。このような祭典を、皆様と共にお祝いでき、心よりお喜び申し上げます。これも一重に、先輩諸氏の一方ならぬご尽力のたまものと、深く感謝申し上げる次第でございます。
 振り返って見ますと、今から85年前、原田敬太氏がこの地に着いて、村の開拓に励まれたことは、大変な苦労だったと想像出来ます。現代の方々にはちょっと理解できないと思いますが、我々50年代以前の方々は、苦労が身にしみ付いていると存じます。
 その後、我が村は益々と発展しピークを過ぎ、現在でも91家族の会員構成となっております。また我が村にとって最大の問題であった、旧街道の通行止めも解決致し、新たに活気づいてまいりました。
 経済面また政治問題におきましては、大変な困難に追い込まれています。我々もその影響を受けておりますが、これはお互いに励まし合い、一丸となって困難を切り抜けていかねばならないと思います。
 本日の祭典についても考えさせられました。この不景気にこのような催し事は如何なものかと。しかしながら、皆様方のご理解がございまして過分なる募金を頂き、このように立派な祭典を行う事が出来ました。皆様方には感謝、お礼を申し上げます。
 このように色々な問題や困難の中に置かれましても、我が村を前向きの姿勢で前進させて行くのが、我らの世代の任務、責任でもあると思います。今後ともがんばりますので、どうか皆様良きご指導ご鞭撻をよろしくお願い致します。
 終わりに、本日のごちそうをこしらえて頂きました、ご婦人とお手伝いの皆様方に心よりお礼申し上げます。ご来席の皆様ならび副博全会員のご健康と益々のご繁栄をお祈り致し、簡単ではございますが私の挨拶と致します。

福博村85年の歩み

 1931年3月、原田、古賀家によって開拓が始まる。同年11月杉本家が入植。33年には早速、福博二五青年会が創立する。福博日本人会の創立は35年1月。村創設者の原田敬太氏が会長となり14人の会員で始動。4月には福博日伯小学校が落成された。
 38年に初めて女子会が誕生。二五青年会は男子のみだった。40年には外国人の活動禁止で日本人会が解散、日本語学校も閉鎖する。翌41年、青年会も一時閉鎖。
 終戦から2年後の47年、青年会が再開。さらに翌年、父兄会を解散し福博村会が発足する。49年には福博寺、福博ブラジル小学校が落成。同年には、青年会員の曲尾パウロ氏がスザノ市議に当選する。
 54年に戦後移住者第1号の水島トモアキ氏が入植。57年に剣道部、63年に婦人会が創立される。その間60年には入植30周年慰霊祭、敬老会、祝賀会も開催し節目を祝う。71年、新校舎「ロベルト・ビアンキ校」が落成、同年に原田敬太氏が逝去する。
 79年に黒木松巳氏がゲートボール用具を持ち込み、福博村が発祥の地となる。81年に第1回伯国ゲートボール大会、入植50周年祭が盛大に開催される。
 08年には麻生渡福岡県知事一行が福博を訪問。スザノでも百周年記念祭を実施する。同年10月、1カ月内に日系人宅に5件の強盗事件が発生、治安が不安視される。
 09年に福博寺閉鎖、60年で幕を閉じる。10年、DVD『スザノ福博村75年のあゆみ』を発表。16年3月20日に85周年式典を行なう。会員は91家族、現在に至る。

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