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五輪にまつわる興味深い話いろいろ

ブラジルも日本も、いったい何人の選手がリオ五輪の金メダルを手にするのか(Foto: Tomaz Silva/Agência Brasil)

ブラジルも日本も、いったい何人の選手がリオ五輪の金メダルを手にするのか(Foto: Tomaz Silva/Agência Brasil)

 「日本移民の日」108周年記念の五輪特集号別冊が本日出るにあたり、オリンピックに関わるうんちく、興味深い話を集めてみた。リオ五輪では「206カ国・地域」から選りすぐりの「1万500人」が参加する。大会に参加する馬の数だけで315頭、使用されるテニスのボールは2万5千個にもなる▼今回のノビダーデ(新鮮味)のある競技は二つ。92年ぶりの復帰となるラグビー、112年ぶりのゴルフだ。全部で42部門の競技に分かれ、合計「306個」の金メダルが争われる▼大多数の競技者や大会関係者を支えるために、大会期間中、供給する食事は1100万食分、3万4千人分のベッドが準備されているとか。ちなみにリオ市が五輪候補地に立候補した時、総予算は「288億レアル」。しかし現在では、なんと「370億レアル」にまで膨らんでいるという▼歴史的に見ると、ブラジルが初めて五輪に参加したのは1920年アントワープ大会で、なんと金銀銅各一つずつ計三つも獲得した。三つとも射撃。この時、ギリェルメ・パラエンセ選手はベルギーまでの船旅の最中、肝心の競技用の拳銃を盗まれ、なんとライバルの米国選手からコルトを借りて参加し、しかも金メダルを射止めた。ああ、貸したライバル選手の心中やいかに。日本には「他人のふんどしで相撲をとる」という言葉があるが、「他人の拳銃で金メダルをとる」とはブラジルらしいか▼次回1924年パリ大会では12人参加だがメダルはゼロ、28年大会は不参加、1932年ロス大会には67人が参加してゼロ。しかも29年の世界大恐慌の直後、コーヒー価格大下落を受け、32年のブラジル代表には遠征予算がなかった。なんと現物支給で、商船に5万5千俵のコーヒー豆を積んで、ロスまでの間に選手が売って遠征費用にするという過酷な試練が待っていた。24人が途中で脱落して帰伯、13人が自費参加した▼なかでも1万メートル走者アドウベルト・カルドーゾ選手は超人的な努力で会場まで辿り着いた。彼が乗った船がサンフランシスコ港に到着したのは、なんと試合の前日。そこから381キロも離れたロスまで徒歩とヒッチハイク(カローナ)で会場まで向かった。ようやく到着したときは競技開始10分前! なんとか参加はしたもののビリ。彼の苦労話は地元「ザ・ロサンゼルス・タイムス」紙で〃鉄の男〃として華々しく報道されたとか▼36年ベルリン大会には94人参加でメダルはゼロ。大戦をはさんで戦後初の1948年ロンドン大会では77人が参加して一つ。世界で初めて日系人がメダルを獲得したのはこの時で、重量挙げ(ライトヘビー級)米国代表として銀メダルを獲得した坂田ハロルド選手(二世)だ▼彼は後にプロレスラーとなり、アメリカに根強く残っていた反日感情を利用してヒール(悪役)として活躍した。1964年には映画『007ゴールドフィンガー』で悪役用心棒を演じ、世界的に有名になり、以後、20年に渡りハリウッドで俳優として活躍した▼次の1952年ヘルシンキ大会では108人参加してメダル三つを獲得。その1人が日系伯人初で、ブラジル水泳界にも初メダルをもたらした岡本哲夫選手(二世)だ。この時の1500メートル自由形ではなんと日本人の血を引く3国籍者が表彰台を独占した。1位が米国二世の紺野フォード選手、2位が日本の橋爪四郎選手、3位が岡本選手だった。リオ五輪でもこのような快挙が起きるだろうか。日系ゆえの、ひそかな楽しみだ。(深)

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