ホーム | 日系社会ニュース | 五輪機に香山六郎の墓参り=俊孝さん祖父の念願果たす=「開会式感動した。東京も」
聖市内のゲッセマニ墓地で香山六郎の墓参りをした香山俊孝さん(本人提供)
聖市内のゲッセマニ墓地で香山六郎の墓参りをした香山俊孝さん(本人提供)

五輪機に香山六郎の墓参り=俊孝さん祖父の念願果たす=「開会式感動した。東京も」

 「終戦直後の一番苦しい時に香山六郎さんに世話になったと、祖父はいつも申しておりました。香山家を代表して墓参りに来られて、本当に良かった」――リオ五輪観戦ツアー一行として、戦前の聖州新報社主・香山六郎の兄の孫、香山俊孝さん(73、福島県いわき市在住)が来伯。6、7日にはツアーから離れて聖市に住む脇坂ジェニーさん(香山六郎の娘・秋子)ら親族と交流を行い、墓参りをした。7日朝に時間を割いてもらい取材した。

香山六郎の孫らと記念撮影する香山俊孝さん(右から2人目)

香山六郎の孫らと記念撮影する香山俊孝さん(右から2人目)

 香山六郎の父・俊久は明治時代に熊本県の地方紙・不知火新聞(熊本日日新聞の前身の一つ)の創刊者として知られる言論人だ。子供は男が2人、女が4人。長男が俊孝さんの祖父・俊雄(1880―1958年)、次男が六郎(1886―1967年)だった。
 両親とも早くに亡くなり、子らは母方の伯父に引き取られ育てられた。兄弟が思春期を過ごしたのは日清・日露戦争の時代であり、伯父に「新天地にいけ」と諭されて育ったこともあり、俊雄は1904年に台湾に渡り、六郎は笠戸丸で1908年に渡伯した。その後、兄弟は手紙のやり取りだけで、六郎は生前一度も帰国しなかった。
 俊雄は台湾で家を50軒ほども所有し、貸住宅業を営んで成功したが、終戦と共に全財産を失い、身一つで本土に引き揚げた。俊孝さんは「祖父が死ぬ前の3年間、一緒に暮らしました。『引き揚げた直後、一文無しで食べ物すらない一番苦しい時に、六郎さんがブラジルから物資を送って助けてくれた。六郎さんには感謝している。いつか墓参りしたい』って言っていました。だから、いつかその願いを叶えたいとずっと思って来たのです」と思い出す。
 六郎は、同郷で皇国殖民会社の上塚周平を手伝って第1回移民と共に渡伯し、1921年に聖州新報を創刊。常に移民の側に立った言論を展開したが、41年7月30日、他邦字紙と共にヴァルガス独裁政権から廃刊の憂き目にあった。戦後も『移民40年史』を編著するなど執筆活動を続けた。
 俊雄の血筋からは今回初めての渡伯。俊孝さんは「祖父(俊雄)には4人子供がいますが、長男は師範学校、残り3人は東大です。私も4人兄弟で全員大学を出た。秋子さんの子も4人のうち3人がお医者さんと聞き、やはり香山家は教育熱心な家系だと確信しました」とうなずいた。
 6日晩に初対面したジェニーさんの印象を聞くと、「とてもおしとやか。やはり六郎さんは教育熱心だったと聞きました」という。
 リオ五輪開幕前日に来伯。「涙が出るほど開会式には感動した。日本選手団が入場した時のブラジル人の応援の高まりなど、一生忘れられません。来たかいがあった。これも日系人の皆さんが築いた信用のおかげ。2020年に東京五輪でこれ以上の歓迎ができるのかと不安になりました」と興奮冷めやらぬ様子で語り、8日に帰国した。

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