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宮尾進さんのこと=聖市 中島宏(西風会)

 宮尾進さんが亡くなられた。
 日系コロニアにとって、かけがえのない人がまた一人、消えた。それに対する無念さと同時に、「諸行無常」という言葉が否応なく迫ってくるという感じもある。
 宮尾さんは、ブラジルの日本人移民の歴史を丁寧に調査し、そこに生じて行った様々な事象を分析し、考察することによって、移民とは何かという大きなテーマを終生探求された人である。
 もちろん、この種の問題に関しては、完全なる回答とか結論などというものは存在しない。
 が、しかし、そこを極めて行くことによって、何らかの形が見えてくることは確かであり、そこに宮尾さんの時空を超えた、大きな目的があったことは間違いないと言えよう。そして、そのことは宮尾さんが歩いて来られた足跡に、はっきりとした形で残されている。
 そこにあるのは、単なるブラジル日本人移民史の中で起きて行った出来事を羅列するだけではなく、その背景となった環境、時代の流れというものを総括的に捉え、そこに宮尾さん自らの思考を加えることによってまとめ上げられた形での集大成である。
 そのことは、これまで書かれた宮尾さんの数々の書籍にも明確に表れている。そこには学術研究という枠からは飛び出してしまった、スケールの大きなものがあって、同時にまた、宮尾さんらしいユニークさがあったと言えるようである。
 宮尾さんは、ブラジル生まれであったが、少年時代に日本に行き、多感な少青年時代をあの太平洋戦争の真っ只中で過ごし、終戦後、日本の大学を卒業してから後、ブラジルに帰っている。
 そのせいかどうか、宮尾さんの持つ思考にはリベラル的、あるいは論理的、合理的なものがあって、言ってみればその傾向がずっと生涯にわたって続いて行くことに繋がっていたようにも思われる。
 宮尾さんは、移民史の研究者であったけれど、しかし、通常の学者タイプではなかった。ブラジルへ帰ってからしばらくは、当時、日系子女を対象にした女学校「赤間学園」の教鞭を取ったが、その後、当時のコチア産業組合が定期的に発行していた雑誌「農業と協同」誌の編集長となり、長年この仕事に携わっている。
 この時期にコチア産業組合関係を始めとする、ほぼブラジル全域にわたる農場を取材として訪れ、じかに移民の人たちの声を聞き、その物語や現状を聞くに及んで、移民問題に対する関心を高め、その方面での知識を吸収して行った。
 だから、宮尾さんの場合は、現場を訪れた体験から生まれた、地に足の着いた移民研究であったと言えよう。さらに言えば、そこに宮尾さんの研究の原点があったということでもあった。
 その後、宮尾さんはサンパウロ人文科学研究所(人文研)の主力研究員に就任し、そこでさらに活動を広げて行くことになる。それまでの資料に基づいた研究論文や書籍を、人文研を通じて発表することによって、その業績が、日本を始め欧米諸国にも認められるようになっていった。
 そして、その流れは現在も、日本からだけでなく、アメリカやヨーロッパの国々からの研究者たちが来訪するという結果に繋がっている。
 宮尾さんが、その生涯を通じてやって来られた研究は、言ってみれば誠に地味なものであった。一般的には、それが注目を浴びるということもあまりなかった。
 しかしそれは、誰かがやらなければならない非常に重要な、そして移民の歴史にとっては欠かすことのできない研究である。地道な研究を重ねて行って、そこに何があるのかというふうに考えてしまうと、そこから先は、ぷつんと切れてしまって何もなくなってしまう。
 宮尾さんはしかし、そういうふうには考えない人であった。
 「こういう仕事はね、まったくお金にはならないし、名声を得るということもまるでない。それを目的とするんだったら、こんな仕事は最初からやらない方がいい。でもね、そこに何かが残って行くものがあるんだな」
 宮尾さんが言われた言葉だが、そこに宮尾さんの人生哲学が表れていると言っていい。ここにあるのは、即物的なものではなく、恒久的なものであろう。刹那的なものは時間の経過と共に消えて行くが、根源的なものは歴史の中に必ず残って行く。
 移民史の研究も、その流れを汲むものであり、だからこそ宮尾さんの研究成果も永続性のあるものであることは間違いない。ただ、このように恒久性を持ったものは、一般にはなかなか見えにくいところがある。
 もっとも、宮尾さんのような人にとってそんなことは、どうでもいいことだったのではないだろうか。視野と視点が違うのである。
 宮尾さんは、ブレることのない信念と思考を持っておられたから、はっきりとした意見を述べられるのが常で、時にそれが、人によっては間違って解釈されたり、十分に理解されないという面もあったことは事実である。
 言ってみれば、それだけ自分に正直な人だったということであり、自分の信念を曲げないという人でもあった。その正否の結果は結局、時間が経つことによって将来、自然に表れて行くものなのであろう。
 学者タイプとは異なると先にも書いたが、簡単には物に動じない豪放磊落なその性格と、緻密な思考を持つ頭脳とは一見、噛み合わないように見えて、その実、それらが絶妙な感じで組み合わされているところに、宮尾さんの持つ人間的な魅力があったと思われる。
 近寄りがたい面があるように見えて、意外と気さくに話の出来るざっくばらんなところもあって、そのギャップの面白さを感じさせる人でもあった。「農業と協同」誌の時代から、長年にわたってずっと宮尾さんと共に仕事をして来た、イラストレーターであり、本の編集も手掛けた田中慎二さんが、こんなコメントをされている。
 「私にとって、宮尾さんは生涯にわたっての編集長ですよ。その重要な編集長に亡くなられてしまっては、羅針盤がなくなってしまったようで、なんとも心許なく、不安定な心境ですね。これは、日系コロニアの痛手だけでなく、私個人にとっても大きな痛手ですよ。何かこう、大きな穴がぽっかり開いてしまった感じで、寂しいですね」
 この大きな空虚感を埋めて行くのは、田中さんに限らず、簡単なことではない。それには、かなりの時間と思索の継続を必要とするだろう。それほどの大きな宿題を、宮尾さんは黙ったまま残されていったということである。(2016・10・31)

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