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旧サントス日本人学校全面返還=連邦政府が名義変更に署名=百周年で落成、110周年で地権=平和への誓い新たに

名義変更に署名された

名義変更に署名された

 サントスに第一回移民船「笠戸丸」が着港してから110年を迎えた「移民の日」の6月18日、戦争で敵性国資産として凍結接収された旧サントス日本人学校の全面返還を求める70年越しの祈願が結実し、建物の名義変更署名式が行われ、コロニアに正式返還された。長年運動を支えてきた関係者やその子弟が一同に介し、念願の全面返還に歓喜に沸いた。

 「今日は歴史的な日。この日のために返還の火を絶やさず、地道に運動を続けてきた、弛まない努力があった」――橋本広瀬春江マリセ会長(49、三世)は、そう全面返還に至るまでの軌跡を振り返った。
 第2次大戦中の1943年7月、サントス沿岸から日本移民6500人を中心に24時間以内の強制立退きが命ぜられ、同会館は資産凍結された。戦後46年に同会館は連邦令で改めて敵性財産として接収され、以来、陸軍省の管轄下に置かれてきた。
 52年に日本人会が再発足してから返還運動が始まり、代々会長がそれを支えた。94年、同市出身の伊波興祐元下議が全面返還を求める法案を提出するも、上院で返還ではなく譲渡の付帯条件付きで可決された後、下院に戻され、再上程待ちが続いた。06年に無償貸与される形で使用権が認められるも、議会では一向に進展しなかった。
 伊波元下議によれば「上程を妨げる圧力があった。第2次大戦で接収した資産を返還することは軍人には理解されなかった」。枢軸国民から接収した資産は数百件に上り、ジョアン・パウロ・パパ連邦下議も「政府も失うことを恐れていた」と振返る。
 日本移民百周年だった08年に皇太子殿下をお迎えし落成。その後、元市長のパパ連邦下議が精力的に議会活動に励んだことに加え、当時の梅田邦夫大使が議会に早期上程を働きかける後押しをし、上下両院での承認、テメル大統領の署名を以って16年12月に正式に発効し、今回の地権の名義変更となった。
 当日の式典では、企画予算運営省国家資産局からサントス日本人会への名義変更の署名が取り交わされた。二度と戦争による過ちが繰り返されないよう平和を祈願する声が後を断たなかった。
 パパ連邦下議は「戦争といえ、大きな過ちがあったことを認めるのがこの返還だ。この歴史を知り、恒久平和を共に作り上げていくために平和を象徴する空間になれば」と期待を込めた。
 元連邦下議で訪日経験もあるサンパウロ州国有財産管理局のロブソン・トゥマ局長は、広島の原爆資料館を訪れたことに触れ、「戦争で壊滅した都市の惨禍を見るとき、二度と繰り返されてはならないと感じた。その忌まわしい記憶は拭い去ることができない」と語り、「この返還実現にどれほど歳月を要したか。これは戦争と暴力に抗った証だ。この日を共に迎えることができ感激だ」と言葉を詰まらせた。
 最後にパウロ・アレシャンドレ・バルボーザ同市長も「正義、平等、尊敬を基盤とした新たな歴史の一章が開かれた。世界では過激主義や排外主義が蔓延っているが、日本人がブラジル建国に貢献し、築いてきた歴史は平和な未来を考えるうえで多くの示唆を与えてくれる」と賞賛。「この返還は共同の努力が結実した結果だ」と積年の労苦を称えた。
 式典では、国有財産管理局(SPU)のシドラッキ・デ・オリベイラ・コレア・ネト局長、テウマ・デ・ソウザ同市議、楠彰首席領事らも祝辞を述べた。


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 サントス市は、広島市が主導して世界163カ国、7595都市が参加する平和首長会議の加盟都市。南米では唯一リーダー都市に選任されている。これは、核兵器廃絶の実現とともに人類の共存を脅かす飢餓、貧困、難民、人権などの諸問題の解決、環境保護のために努力して世界恒久平和の実現に寄与することを目的とした国際機構だ。戦争中、ジャーナリストの岸本昂一が《大南米におけるわれらの「出埃及(エジプト)記」》と譬えた24時間以内の強制立退という、戦時下の日本人に対する最大の人権侵害事件も同市では起きた。会館が全面返還された今、二度と同じ過ちが繰り返されないようサントス日本人会には、その歴史を語り継ぐ役割を期待したいところ。
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 1978年から2003年まで25年間、会長を務めた上新さんは、今年3月11日に享年95で亡くなった。式典に出席した娘・小代子さんは「父ちゃんは返還のためにこつこつと活動していた。この日をきっと喜んでいるはず」と天を見上げ、「これからが重要。日系人だけでなく、ブラジル人も加わり、一生懸命に日本文化を継承していかなくては」と遠くを見据えた。

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