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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(19)

 カンボーイは苦り切った顔で私たちを眺め、長屋の前のドイツ人捕虜たちのニヤニヤ笑いは、同情的な顔に変っていた。結局一台のトロッコも押せないで引揚げた。
(註)一九九二年の墓参行で当然ここにも立ち寄った。二五四連隊第一大隊が収容された錫鉱山である。当時は第一大隊がいることを知らなかった。墓参行を計画した吉沢秀夫元軍曹は、第一大隊に所属していた関係上、第二大隊(ブイルツァ村、伐採)と私たちの第三大隊(モルドイ村)のこともよく知っていたという。
 ここも私たちと同じ状態で一月に入ってからは、死体を運ぶ力のあるものもいなくなったという。彼は高熱に耐え、前の日に死んだ数人を荷車に乗せ、谷底に死体を運んで帰ったまま意識を失ってその場に昏倒した。彼の記憶ではそうやって谷底へ運んだ部下たちは、二〇〇体以上にのぼったという。その部下たちのことが忘れられなくて、九一年にソビエト崩壊後ハプチェランガ村を訪れ、村人の協力を得て谷底に散乱していた遺骨を発見した。
 私たち墓参団一行は村を訪れて、その谷底に案内された。村人たちは集めた遺骨を埋葬し木製の碑を建てた上、木柵で囲っていてくれた。
 その谷底には広い範囲に骨の小片が取り残されていた。私たちは丹念に拾い集めて柵内に埋葬した。持参した樫の碑を柵内の碑の傍に建て、ねんごろに冥福を祈った。この地にはないはずの低い梅の木が四本、今を盛りと咲きほこっていた。

  一四、ふっきれた精神的苦痛

 珍らしく晴れ渡り、吸い込まれそうな碧瑠璃色に澄み切った朝の空であった。九月半ばを過ぎていたろうか。飢餓線上をさ迷いながら酷寒と重労働に耐えていたある朝の、地獄の点呼に整列していた時のことだった。このラーゲリ(強制収容所)に放りこまれてから、頭を上げ正面を見る気力はなく、いつも下を向いていた。
 その時なぜか正面を見た。丘の中腹だから頭を立てると、正面の風景が目に写った。丘裾にへばりついている貧相な村の屋根、その向うにひろがる大平原、さらにその果てに横たわる連山に気付いた。地面ばかり見つめて歩いていたからこんな風景があったのかと、一種の感動をもって眺めた。
 白雪に覆われて鋸の歯のように切り立っている連山と接している、碧瑠璃一色の空とのコントラストが、例えようのない美しさだった。アルプスを連想させた。
 (ああ、奇麗だな)
 と、心から感動が湧いたあと、なにかがふっ切れた。
 入隊以来、初めて覚えた感動である。俺は今捕虜にされている。飢えと酷寒にさらされ、激しい労働を強いられている。しかし、この自然の美しさはどうだ。不毛の地にさえ見たことのないこれほどの美しさがある。奴らは肉体を拘束しても、自然を美しいと感じる心の自由までは、拘束できないではないか。
 そう思うとなにか不思議な力が湧いてきた。そして肉体の苦痛は別にして、精神的に感じていた苦痛は薄らいだ。そうなると、入隊が近付き故郷の西広島駅を発つ時、それまで一言も口をきかなかった母が、いきなり背伸びして、私の耳にささやいた一言。
「生きて帰るんだよ」を想いだし、瞼が熱くなった。
 また入隊する私を新京駅に見送ってくれた初恋の人、山下春乃が、「生きて帰ってね、迎えにくるのを待ってます…」と、その後を絶句し、全身ですがりつくような眼差しも想い出した。

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