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沖縄戦の惨苦――戦争孤児 親富祖政吉=第5回・終わり

親富祖家のみなさん

親富祖家のみなさん

 しかし当時の社会情勢は、「プライス勧告」というアメリカ政府の無謀な基地強制接収政策にたいし「4原則貫徹」の島ぐるみ反対運動で揺れており、青年たちの多くは運動に参加していました。このように基地問題で揺れる故郷沖縄を後にして僕は、希望の地を求めてブラジルに渡ったのです。
 ブラジルでの生活さて、ブラジルに移住した僕は、聖州奥地トッパンのファゼンデーロ照屋敏雄氏のファゼンダに配耕され、落花生や綿を耕作するコローノとして働きました。やがて移民契約2ヶ年が過ぎた頃、僕は地主の照屋氏から結婚を進められ、1960年2月同郷浦添出身の南拓移民宮城カツ子と結婚しました。
 わが子が生まれ、土地を買い、トラトールも買って本格的に自営農業を始めました。ところがそのうちに農薬中毒がひどくなり、医者から、「このままでは、身体が全部ダメになる」と忠告されてしまいました。途方に暮れているところにサンパウロ市在住の妻の親戚宮城信吉の父親が訪ねて来て、「サンパウロには縫製下請けの仕事が幾らでもある、サンパウロに出よ」と勧められ、1968年にサンパウロ市カーザ・ベルデ地区に移転しました。そして家族で縫製下受けの仕事を始めました。
 しかし、縫製下請けの仕事は、僕の性にあわず、しばらくしてタクシー運転手となって生業を始めました。その頃ウチナーンチュの間では頼母子講があり、事業資金や家屋建設の資金繰りで相互に助け合っていました。僕もその仲間にはいろうと思ったが、そのためには保証人が必要でした。その成り手が居なくて困っていました。
 そんな時に伊佐浜移民の田里友憲さんのお父さんが「自分が保証人になるから頑張りなさい」と言ってくれて大変助かりました。そのようにできたのもトッパン以来親しくしていた同じく伊佐浜移民の屋良亀一さんが「あの人なら大丈夫だ」と田里さんに言ってくれていたからでもあった。
 ともあれ僕は、伊佐浜移民や隣人ウチナーンチュたちに助けられて、頼母子講の1員となって家族のためのわが家を購入し、事業資金を確保することが出来たのでした。
 タクシー運転手をしばらく続けて後、僕は再び縫製クストゥーラ業に立ち帰りました。2男3女の子供たちも大きくなり、それぞれ独立した事業をめざしていたので、妻と2人での家業を進めました。やがて子供たちも結婚独立の生活基盤を造り、僕は1985年まで縫製クストゥーラ業を続けました。子供たちはみな独立分家して、僕は11名の孫にも恵まれて、ブラジルに移住して良かったと思う。
 沖縄県人会など社会活動への参加僕は、70年代半ば頃に沖縄県人会カーザ・ベルデ支部に入会し、仲松弥保支部長や長田弘一支部長時代に会計や日本語書記など支部役員を務め、良き先輩たちと共に活動しました。
 また70年代から80年代にかけて沖縄文化センター運動場を中心にスポーツ・文化活動を活発に繰りひろげた沖縄開発青年隊運動の役員も務めました。現在は、生まれ故郷と繋がるブラジル浦添郷友会の会長を今は亡き宮城信吉さんや島袋安雄さんらに支えられて10年以上務めています。浦添市の海外移住者子弟研修制度を活用した二世・三世・四世子弟の研修生派遣に微力ながら力を注いでいます。
 僅か5ヵ月の研修期間ですが、郷土浦添で学び、帰ってきた子供たちが見違えるように変わり成長している姿に接し、《ふるさと》のもつ深い力をつくづくと思う。オジー、オバーの故郷の海や空の色、親戚を訪ね、ルーツを知ることがこれほどまでに子供たちを成長に導くのか。
 ウチナーンチュのチムグクルを改めて思うのです。
 戦争で苦しみ、戦後は親も兄弟もなく荒れ果てた僕の人生は、生まれ故郷に対してどことなく醒めたものを持ち続けてきました。研修から帰ってくる若者たちの沖縄への熱い思いや人間的に成長してくる姿を見ると、自分を考えさせられます。僕は、海外移住者子弟にとってこの研修制度のもつ意義を改めてかみしめています。
 僕は、今回島袋安雄さんに呼びかけられてインタビューにためらいながら応じましたが、僕の胸の中に長い間しまい込んでいた戦争体験を語って良かったと思っています。僕が体験したあの戦争の惨苦、多くの人々を悲劇のどん底に苦しめる戦争を決して繰り返してはならないと切に思います。(終わり)

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