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「冠婚葬祭」という日本文化=半田知雄著『移民の生活の歴史』より=切な過ぎる一言「先祖を守れません」 聖市 ヴィラカロン在住 毛利律子

和装の結婚式

和装の結婚式

 先日、サンタクルースのメトロ駅近くで整体治療院を経営する岸本晟さんから、大変貴重な本をお譲り頂いた。半田知雄氏の『移民の生活の歴史』である。
 それは、1908年6月18日に第一回笠戸丸がサントスに着岸した日から、1967年5月、移民60周年記念式典に来泊された今上天皇・皇后をお迎えした時までの、広範、かつ詳細な移民生活の歴史である。
 およそ800頁に及ぶこの書には、ブラジル国民形成の歴史の一部を担った移民60年の過程における筆舌に尽くせぬ艱難辛苦の移民生活を綿密に描写し、ブラジル社会との融合を模索しつつも、日本文化を次世代に伝えるべく奮闘した先人の、万般にわたる記録が綴られている。
 その中でも興味深いのは、キリスト教国家ブラジルでの移民生活で、「冠婚葬祭」という行事の、どこを譲歩し、何を堅持するか。いかに日本的色合いを残して、次世代に行事を伝えるかを苦心した項目であった。
 それに触れる前に、まず、日本的冠婚葬祭についておさらいしてみたい。

▼国民総参加型、神仏混淆の冠婚葬祭

 「冠婚葬祭」の4大礼式は、日本のみならず、世界の文化圏で様々な形態で通過儀礼として大きな意味を持って伝承されている。
 まず「冠」はもともと元服のことで、いわゆる成人式。「婚」は結婚式、「葬」は葬儀、「祭」は先祖を祭る祭祀のことである。一般的に大きく二大イベントとして分けて考えると
★「冠婚」は慶事で、
★「葬祭」は弔事である。
 「祭」は先祖を奉るためで、季節行事のほとんどが「先祖を偲ぶ」ためのものだった。回忌等の追善供養、春秋の彼岸やお盆など。神仏混淆の祭りが、ほぼ年中、津々浦々で催されているということになる。
 歴史的には室町時代、足利義満のお作法の先生だった、小笠原長秀が伝える冠婚葬祭や日常生活全般のお作法が規範となったという。
 明治時代の結婚式は小笠原流簡略版の「自宅結婚式」で、宗教者が介在しない民間行事であり、長い行列を組むことが特徴でもあった。
 そのような「行列型」から「劇場型」に移るきっかけになったのは、1900年、大正天皇と貞明皇后の神前ロイヤルウェディングが最初であった。
 戦後は、民法改正に基づいて冠婚葬祭互助会が発足し、全国的なグループ組織に発展し、そして1958年の今上天皇・皇后の結婚式が国民全体に大きな影響を与え、以後、宗教者が介在する神前、仏前、キリスト教結婚式が大流行となる。
 高度成長期は、一般庶民が有名人並みの数百万円の結婚式を挙げるという「見せる婚」がピークとなった。
 布教の一環として神社、寺院、キリスト教教会が非信者の婚礼を解禁にしたが、各地に出来たチャペルや式場のほうが賑わった。そのチャペルには3千人の団員を有する「キリスト教ブライダル宣教団」の牧師、オルガン奏者、聖歌隊などが派遣された。
 1970年に出版された塩月弥栄子の『冠婚葬祭入門』は700万部以上も売れ、そのマニュアルに国民は忠実に従った。宴では食べ慣れない洋食コースにアタフタし、出し物は抱腹絶倒…宴の後には、成田離婚(スピード離婚)が待っている。これではいけないと、国民総反省の挙句、一転、「地味婚」「会費婚」「できちゃった婚」…などに向きが変わった。
 今や、超高齢化社会の「少婚多死」の時代では、かつての結婚式場は斎場へと改装され、常に成長産業の冠婚葬祭ビジネスは、ぬかりなく万全の対応を提供してくれるのである。
 さて、日本は長く「少子化」が続いている。そのため赤ちゃん誕生は一大イベントになる。
 「キリスト教会」での結婚式をした夫婦に赤ちゃんが生まれると、今度は「神社」で赤ちゃんの初参りをする。お食い初めなどの伝統行事も復活した。
 誕生日パーティー商戦も活発である。桃の節句や端午の節句は簡素化傾向になったが、七五三参り、合格祈願、縁結び祈願では神社にお参りする。成人式は地域の各会館、大講堂に、男子も女子も、全員が同じ着物姿で登場する。
 12月はクリスマスケーキを囲んでのクリスマス・パーティー。その一週間後には除夜の鐘を聞き、元旦には「寺社仏閣」に初参りして一年の無事を祈願する。そして、仏教でのお葬式…。
 お正月から大晦日までの年中行事には、神社仏閣、各地域諸団体、デパート、コンビニ、貸衣装店、着付け教室、写真館、美容院、レストラン、タクシー等々、あらゆるビジネスが関わる。
 血縁関係、友人知人、職場関係の潤滑油の役目を果たす中元・歳暮の時期は疎かにしてはいけない。すべて商業施設が準備万端に用意してくれるから安心だけど…。祭事抜きには日本の経済社会も人間関係も成り立っていかないのである。
 こうしてみると、宗教上の対立でテロや戦争を始める国と比較すると、日本は何と大らかで、宗教的寛容な平和な国であることか。

▼国際化と宗教への配慮

 世界的には、キリスト教国家と言われる国々でも、特定の宗教を持っている人の場合を考慮して信教の自由と各宗教行事のすり合わせが行われている。
 例えば、「新教の国」アメリカ合衆国では、すでに九〇年代からユダヤ教やイスラム教徒への配慮から「クリスマス」を「ハッピーホリデー」に、「メリークリスマス」を「シーズンズ・グリーティング」に換えた。歴代大統領で「メリークリスマス」を使ったのは92年のブッシュ父政権が最後だという。
 2005年12月にジョージ・ブッシュ大統領が発注した140万枚のクリスマスカードが「ハッピーホリデー」だったため、キリスト教右派が大反発したとも報道された。1994年に世界宗教者平和会議(WCRP)が出したリバデガルダ宣言には他の宗教的伝統に対して敬意を以って接することなどが表明された。
 つまり、いまどきの日系人の間では、お付き合い上、他宗教の冠婚葬祭に関わるときに、出席はしても、宗教的所作は合わせないことにするかどうか。仏教の人が、カトリック教会でのミサで、数珠を持参するかどうか。カトリック信者と同じように立ったり座ったりして賛美歌を歌うか。献金のカゴに小銭を入れるかどうかの判断は本人に任せられている、ということである。
 それは、他力本願で優柔不断に済ませたいという人にとっては、結構な悩みの種になっていることを、よく耳にする。

▼初期の移民社会の宗教生活

ご先祖様にお祈りを捧げる様子

ご先祖様にお祈りを捧げる様子

 半田氏はこの一書に、実に多くの移民生活の動態を網羅しているが、「移民の歴史を綴るに当たって一番の困難を感じるのは、その宗教生活の面である」と述べている。
 戦前の移民の間では、寺院や教会を立てて、そこを村全体の精神的統合の中心としようとする動きは、まず無かった。日本人の宗教的生活態度は、ヨーロッパ人のそれとは、この点でかなり違っていた。
 日本移民の精神生活では「神、仏」よりも国家あるいは民族の観念が上位になり、これが移民の精神の支柱になっていた、と半田氏は指摘している。
 次男、三男の多かった初期の出稼ぎ移民は、「先祖は兄が日本でみてくれる」「帰るまで留守を頼んできた」「いずれ、墓参りに帰るつもり」という宗教不在の理由があった。
 カフェランジャの「平野植民地」(グァタパラ耕地の副支配人だった故・平野運平氏が中心となって開いた)に鎮魂碑が建立され、神仏合同での記念祭が挙行されたのが1931年のことで、それ以前に宗教的活動はほとんどなかった。
 無宗教的生活を営んでいた日本人移民の生活の中にも、宗教的意味を持ったものが慣習的に繰り返され、それが生活の日本的な枠組を与えていた。
 その形態は、お正月には「お供え」を飾り、お神酒(ピンガまたは日本酒)を供え、命日には精進料理を作り、棟上げには餅をついた。天長節は集団で祝い、その他の日常生活では、食事時に「いただきます。」「ごちそうさま」を習慣として実践した。
 子弟の教育には、物を粗末にすることを戒め「もったいない」の精神を植えつけ、無慈悲なことをすると「祟る」、無作法な態度は「罰が当たる」と諭し、また「功徳」になると言って善行を勧めた。
 このような、日本人の生活に浸透していたものはある程度持続されていたが、宗教的行為として意識されていなかったようだ。やがて、1930年以降、各植民地に寺院や教会が建立され、本格的な宗教生活が始まった。
 半田氏は言う。「戦前移民には宗教がそれほど力を持っていなかったが、戦前的集団と天崇拝の衰えに伴い、宗教はこれに代わる新しい民族結合の原理となった。それに参加している二世層は、日本人的要素を豊かに持っていることも特徴である。
 このような結合様式は、農村において最も特徴的である。しかし、こうした結合を持たない二世三世とコロニアの大勢は、ブラジル化への方向とともにカトリック化が本流となっている。この傾向は、ブラジル人と接触の多い都会ほど強い」

▼初期移民生活での冠婚葬祭

 初期移民の頃、日本伝来の古き佳き価値感をどのようにして遺そうとしたかについて、ロンドリーナからマリンガ方面にわたる北パラナにおける「冠婚葬祭」の記述を引用して紹介したい。
 子供(二世)の結婚について、一世の親にとっては互いの生活程度にあまり格差が無い者同士が結ばれる、日系同士の結婚を望んだ。当時、様々な会合での紹介者の仲立ちによる「紹介結婚」や、日系人同士の文通結婚なども盛んであった。都会では、お付き合いから婚約、家庭同士の付き合いを経て結婚となった。日系人以外の結婚については、一世の「望むところではない」のが普通で、割り切れない気持ちを抱きながらも、諦めを以って承認するのが大多数であった。
 日系人以外との結婚の場合、ヨーロッパ系ブラジル人と日系人娘の場合はおおむね良好。日系二世青年とブラジル人娘の場合は半数ほどうまくいかない。その理由は日系娘の方は、すっぽりとブラジル人の夫との生活に溶け込めるが、二世青年の場合は日系社会から抜け脱せず「日本的気持ち」を持ち続けるわがままを通そうとする。経済的格差も相互理解の妨げになった。
 二世の結婚式は、多くがカトリック教会で挙行され、日本人の結婚式は豪勢で、披露宴は会館などが貸し切られる。
 葬儀の場合は、若い者の時にはカトリック的で、年寄りは仏式が多い。しかし、一応カトリック教会で告別式をし、墓地へは坊さん同伴、仏式の埋葬もする。
 これは、教会で結婚式をあげ、家へ戻ると、もう一度三々九度の盃を交わし、披露宴に移るというのと同じ方法で、おそらく一世と二世の両方の気持ちを汲んでのことであろう、正確なことは言えないが、「冠婚葬祭二世の成長とともに、年々カトリック的な冠婚葬祭が行われるようになるのは自然の成り行きであろう、と半田氏は述べている。
 
▼様々な祭り

 祭りについての記述は、「戦後のコロニア社会に、各所に仏教寺院や宗教的集会所が建立された。ロンドリーナ、アプカラーナ、マリンガの仏教寺院境内で開催される盆踊りはつとに有名である。ドラセーナ邦人の献句には、
「キリストの国で楽しい盆踊り」
「青い目も混じりて踊る盆踊り」
―とあるように、ブラジル人にとっても恒例行事としての盆踊りとして定着した。
 寺院やその他の宗教的集会所、各会館などでは、あらゆる会が立ち上げられては消えていく。そこでは祭りとしての年中行事や同好会主催の祭りが行われ、それはまた、会館等の維持費を補いコロニア社会の発展につなげる、無くてはならない行事となっていった」
 このようにして、初期移民が苦心して遺した冠婚葬祭の行事は、イキイキと賑やかな祭りとして広がり、今日のニッケイ社会に繁栄をもたらしている。
 半田氏は、一貫して「移民の子として、移民の側に立ってものを言ってきた」。その心意気もまた、次世代に大切に受け継がせなければならない。
 もうひとつ考えたい事がある。「これからのお墓、遺骨、位牌を誰が守るのか」ということは、日本国内でも懸念されていることである。
 サンパウロにある日本式墓苑を訪ねた時のことであった。管理者の方の話では、先祖の納骨室、墓地をお参りする人が激減し、荒れ放題になっている。また、仏壇、位牌、遺骨までも守ることができないという人が増えている、というのだ。今の日本の葬儀、遺骨など、死に纏わることは、以前とは全く違う変革期にある。それがブラジルニッケイ社会でも起きているということなのだろうか。
 何が原因しているのかを考えてみた。旧来の家庭での法事の在り方は、今の若い世代にとっては煩雑で重苦しいかもしれない。それは、訃報を聞いた人々が、朝から晩まで間断なく弔問に来る。
 法事の場合は、たくさんの料理を数日も前から用意しなければならない。訪問客は故人との昔話を延々と続ける。遺族は最期まで失礼の無いように付き合いしなければならない。
 若い世代にしてみれば、どこか会場を借りて時間制限で済ませばいいではないか。仕出し料理のブッフェを頼めばいいのにという不満が募る。それはやがて、家族関係がぎくしゃくする大きな理由の一つになってくる。
 だからと言って、お墓も仏壇も位牌も守ることはできない、と極端な結論に至るのはどうしたものか。
 「結婚式はお金がかかるからしません」というのと違って、「人の死」は本人も家族も何もしないでは済まされない。
 「あなたの死は、あなたの死であって、あなただけの死ではない」とはよく聞く言葉である。
 つまり、人間は自分の葬式もその後のことも、自分では何もできない。孤独死と言ったって、誰かにお世話にならなければならない。「生前予約」とか、「生前契約」とか言って自分が生きている間に身の回りのこと全てを整理しようとしても、不可能である。

仏壇

仏壇

 「死」に関わる事は、想像以上に大変多くの事柄を解決しなければならないのだ。そしてこのことは、誰一人として例外はないことを、常日頃から家族間に周知しなければならないということだ。家族のとるべき責任として。
 初期移民が時代の変遷に関わらず、自分亡き後の世代に受け継がせたかったことは何だったのか。単なる祭りとしての冠婚葬祭行事ではないはずだ。
 それを考えると、子孫の世代が「先祖を守れません」と言うのは、あまりに切なすぎる。
 この一書を通して、暮らしが豊かになった現代人の心のあり方と、先人への最高の供養について、改めて考えさせられた。
□参考文献□
★『移民の生活の歴史―ブラジル日系人の歩んだ道―』半田知雄著、1981年12月15日第3刷発行 トッパン・プレス印刷出版会社(有)
★石井研士「結婚式―幸せをつくる儀式」NHKブックス、2005年
★井上治代「子の世話にならずに死にたいー変貌する親子関係」講談社現代新書、2005年

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