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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(41)

 夕食は一日を無事に過ごしたことを話し合う大事なときなのだが、その晩、話題になったのは食事の質の悪さだった。三人が不慣れなせいもあったのだが、悪いことのすべてが食事のまずさに集中しているように感じたのだ。疲れきっていたから、間に合わせに作ったベッドは寝心地が最高だった。
 暮らしは次の日も、そのまた次の日も、変わらなかった。けれども、これ以上、悪くはならないと考えるとそれが救いになった。この適応性が現在も、そして、その後の辛さを耐えるのに役立つことになる。
 収穫がすむと、次の作業が待っていた。まず、豆を乾燥させ、貯蔵庫――みんなは貯蔵庫というが、正輝はちゃんと発音できなかった――貯蔵庫に収納した。袋詰めしてからの搬送。コーヒー樹の手入れ管理、乾燥期に樹の水分や栄養素を吸ってしまう雑草の除草。樹を適当な高さにそろえるための剪定、労働者が「どろぼう」とよぶ徒長枝の間引き。どれもこれも非常に辛い作業だったが、監督から怒られないためには完璧にやりとげねばならない。
 正輝には物事を観察する力があった。仕事を一日中だらだらしなくてもよい方法があるのではないか。朝、早いうちに集中して仕事をする。その日のノルマがすんだと思ったら、茂みに寝転んで腕を枕に、そのへんで働く労働者をながめたり、将来のことを考えたりした。ときには、帽子を顔にのせ、眠ることもあった。叔父の樽が「おい、怠け者」と叱ることもあったが、ちょくちょくそういうことをくり返すことが多くなった。
 樽自身は移民の生活がこのようなものだと、想像もしていなかった。
「わかっていたら、来なかったのに」と何度も後悔した。
 ただし、妻や甥に帰国の願望をかんたんにうち明けるわけにはいかず、言ったことはない。当時はだれもが心の底ではできるだけ早く帰郷することを夢見ていた。ブラジルはただ少しの間の仮住まいだと考えていた。だから、現状を受けいれることができた。彼らはほかの移民たちに使われる短期滞在を意味する「在留民」という日本語を知っていた。ここはただ通過する場所であり、その期間が短ければ短いほどいい。
 他の国の移民もブラジルにくるにはいろいろな理由があったに違いない。ただ、日本人移民は善悪は別に、ホスト国の社会に入れなかった。外観だけで揶揄の対象となった。習慣も奇妙なものが多かった。特に、沖縄人はわけのわか
らない言葉を使う。それがブラジル人やヨーロッパ系のグループに溶けこむのに大きな障害となった。
 収入はがっかりするほどの額だった。1908年にリオ公使館の野田良治通訳の報告書については前述したが、10年後にはこんな記述を残している。
『男二人、女一人の家族が一年間の苛酷な仕事のすえに得た収益は400ミルレイス、日本円で270円だった。これでは移住に費やした金額を清算することさえできない。しかも、この例は最初の、しかも好結果を残した移民に限られていて、後続の移民たちには収益などなく、食べるだけが精いっぱいだった』
 報告書はつづいて移民たちの挫折感を述べている。次に紹介するブラジル移民の失望にふれた報告も、いちばん初めの移民時代から、その後の10年間のことが書かれている。契約労働10年後に到着した移民たちの感情もとりあげられている。

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