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『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(17)

事件相次ぐ

 溝部事件の翌4月の30日、バストスの敗戦派7人の店や住宅に小さな箱が届けられた。見かけぬ非日系の子供が持ってきたという。
 届け先は池田正雄の店、草原義松、大場八郎、山中権吉、阿部一郎、本田正雄、林ジョンの家だった。池田の店、大場、山中の家でそれを開けた。小さな爆発が起こり、商品が四散したり、人が手や腕に怪我をしたりした。他の4カ所は、事前にその爆発を知ったため、箱を開けず難を免れた。
 溝部襲撃に次ぐこの事件で、敗戦派は戦勝派が計画的にテロに動いていると観た。その戦勝派として、特に臣道聯盟バストス支部が疑われた。
 バストスでは、かつての駐在所が、その後分署になり、さらに署に昇格していた。この署が敗戦派の協力を得て捜査と対策に乗り出した。
 6月2日、サンパウロ市内でバストスの指導者の一人、脇山甚作大佐が射殺された。
 なお、筆者は『百年の水流』改訂版で、前出の『皇紀二千六百年記念 在伯同胞発展録』の記事を引用、脇山は「シベリア出兵の折は聯隊長であった」と書いたが、やはり前出の名波記者によると「調べてみたが、聯隊長であったという事実はなかった」という。溝部幾太の件と共に、この発展録の記事を引用した筆者の失敗であった。ここで訂正、謝罪させていただく。
 翌3日、州政府から特別警察権を付与された治安組織が、敗戦派によりバストスに設立された。
 自警団と通称された。因みに、これを機に各地の邦人集団地で、敗戦派により、この自警団が設立されている。
 バストスの自警団は、戦勝派の住宅や仕事場を次々捜索した。武器、臣道聯盟に関する書類などを押収した。移住地と市街地の入り口に警備員を配置、通行人の身体検査をし、外来者には自警団発行の通行証を持たせた。
 自警団の動きは、時に過激に走ることもあった。手を緩めると逆襲されるかもしれず、団員も昂(たかぶ)っていたのである。
 以下は、筆者が当時を知る人から聞いた話だが、バストスの戦勝派の中には、警察や自警団に拘引され、頭の毛や眉をそられ、町中を引きずり回された人もいた…という。
 自警団の動きは、当然、戦勝派を憤激させた。そして7月16日、山中弘が自宅で襲撃された。
 山中は、敗戦派の中では目立った活動をしていた。1904年の生まれ(北海道北見市)で、父親が既述の権吉である。弘の甥で、後にバストス市長になった山中ヤスヒコ氏は、2012年1月、筆者に、こう語っている。
「チオの家で、その日の夜9時過ぎ、来客中、入り口の戸を叩く音がした。チオとチアが出て行って、ポルタを開けた。人影があり、両手に二丁のピストルを構えていた。夜であり、顔は判らなかった。(その影が撃ち)チオが重傷を負った。チアも負傷した。(狙撃者は)馬で立ち去った」
 次いで7月23日、カスカッタ区の梶原武男が、夜、帰宅の途次、棉畑の中から8発の狙撃を受けた。弾はいずれも外れた。ただし、この事件は資料が乏しく、詳細は不明である。
 相次ぐ事件の発生と自警団の過激な動きで、戦勝派と敗戦派の対立は一段と殺気を強めた。主導権は警察と組んだ敗戦派が握った。が、邦人の大多数は戦勝派で、敗戦派に敵意を込めた感情的反発を続けた。町の秩序と統制が全くとれなくなった。
 すでに記した通り、当時バストスは経済的には死に体で、そのさ中の、この始末である。自然「これはマズすぎる」という自覚が住民の間に生まれた。そこで両派とは別に、中間・穏健派の人々が、調停役を買って出た。彼らは戦前あった自治機関と同種の団体をつくった。この団体は6年間、秩序と統制の回復につとめた。殺気は徐々に薄れて行った。
 両派の主要人物はバストスを離れ、別の土地に移った。(つづく)

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