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『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(23)

ブラジル一!

 話をもう一度、終戦直後に戻す。
 何度も書いたことだが、当時この国の蚕糸業は崩壊、バストスもバストスそのものが半ば壊滅してしまっていた。大半の住民が生きる方途を求めて、次々と他へ移動して行く中、残留組は死中に活を求めて新産業を模索していた。そして一時、西瓜・ポン柑に光りを見い出した。が、結局、西瓜は、その主たる出荷先であったバウルーで生産が始まり、市場を奪われた。ポン柑は病気が出、州農務局の命で全て伐り倒した。
 そうした中で、長期的に一個の産業に成長したのが養鶏(卵)である。しかも、その勢いは急で、1950年代、バストスはブラジル一の卵の生産地になっていた。その地位は2018年現在も変わらない。
 先に触れたことだが、この町には世界一の生糸メーカーの工場がある。加えて卵ではブラジル一の…となると、ただの、ちっぽけな田舎町と舐めるわけにはいかない。
 その養鶏、1929年の入植開始時から、どの農家でも──地鶏ではあるが──10羽や20羽は庭で飼っていた。もっとも卵や廃鶏を食材に使用する程度であり、副業とすら言えなかった。
 その副業化の最初の事例──とされるのが、カスカッタ区のファミリア渡辺である。1935年、長男が既述のバルパのレトニア人の植民地へ行き、数羽の白色レグホンの種鶏と孵化器を買ってきた。これで飼育数を増やした。1938年200羽、1940年800羽…という具合に。
 ファミリア渡辺は卵を商店へ卸し、雛を他の入植者へ販売した。
 ブラ拓事務所も1937年頃から、養鶏を入植者に奨励し始めた。栄養の補給、食材の自給自足が当面の目的だった。やがて副業化を奨励する様になった。事務所では種鶏場を作り、専門の技師を招き、入植者を相手に講習会を開いた。が、その技師の後年の回想では「当時は、誰もが蚕に力を入れていたため、余り耳を傾けてくれなかった」という。
 それでも関心を持つ人が少しはいた。棉の連作による土地の疲弊に気づき、鶏糞を施肥に利用しようとしていた。
 1940年頃から、副業化への動きが増え始めた。移住地内のグロリア区、カスカッタ区、その他の農家が卵の市場開拓を始めたのだ。1944年暮れ、少量ながらサンパウロへ出荷した。市場での販売は、当初は個人の業者に任せていたが、やがてバンデイランテ産組に委託した。

水間久

 1945年、彼らは任意(非登録)の出荷組合をつくった。参加者は14家族で飼育数は計7千羽であった。組合の専務理事は(当初別人であったが、半年後に)水間久が引き受けた。
 なお、当時の日系産組の経営の采配は――理事長は居たが――専務が預かることが多かった。先に記したバストス産組も、そうであったが、ここも、それに倣っていた。
 水間は1899(明32)年福井県に生まれ、1933年、34歳の時、家族と共に渡伯した。
 5年後、バストスに入植しカフェーを栽培した。が、霜害に遭い、養鶏に転向した。日本時代は養鶏の専門家だった。
 専務となった水間は、まずバンデイランテの出張所をバストスに開設させようとした。
 その頃、同産組をやはり専務として経営していたのは、原田実である。原田は1902(明35)年、熊本県に生まれ、1927年渡伯、サンパウロ近郊のジュケリー(現マイリポラン)に入った。8年後、
ジュケリー産組の専務になったが、組合は内紛が続いており、4年後に辞任した。
 後任には中沢源一郎が選出された。しかし原田はこの人事には不満であり、仲間と共に脱退、バンデイランテ産組をつくった。当初、参加は27家族だったが、積極的に組合員を増やし、本部もサンパウロに移した。彼らは中沢とジュケリーに猛烈なライバル意識を燃やしていた。従って水間の申入れは望む処であった。(つづく)

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