ホーム | コラム | 特別寄稿 | 特別寄稿=ブラジルに於ける日系人社会=消えていく日本人会、その後に残るものは=ブラジル和歌山県人会=会長 谷口ジョゼー眞一郎

特別寄稿=ブラジルに於ける日系人社会=消えていく日本人会、その後に残るものは=ブラジル和歌山県人会=会長 谷口ジョゼー眞一郎

 まず予め注意しておきますがこの一文は私の視点であり、異なった見解をもつ者がいてもおかしくない。しかし、ここに記した文章は架空の論で無く私自身の生涯で体験した証言である。

 ブラジルに移住した日本人は戦前、戦後含めておそらく25万人強と推定されている。初代の日本人移民はこの新天地で生き延びるため相互扶助しながら開拓地を耕し、組合を創設し、いろんな面で努力した。

 そのために植民地をつくり、板張りの会館などを建て、寺小屋式の日本語学校も作り、そこで幼い子に日本語の勉強をさせた。どんな苦しい生活をしながらも日本人は誰しも我が子の教育だけは怠らなかった。

 その結果、開拓者は貧しい生活の一生を終えたが、その子弟である我ら日系ブラジル人二世は日本語と現地のポルトガル語をこなせるようになり、またブラジルの大学を卒業し、社会的エリート階級に達成した日系ブラジル人は数多く示すことが出来る。

 

終戦直後に日本文化から遠ざかった影響残る

 

 しかし、1939年から1945年の間、第2次世界大戦のため、日本人の順調に進歩していた生活が一変した。敵国になった日本とブラジルに於ける日本人に対する制限は著しく目立った。例えば日本語学校は閉鎖され、三人連れの日本人は禁止された。日本の流行歌を歌うことさえ家庭で無ければできなかった。

 因みに私の名前もブラジルでは「JOSE」のみになっている。日本名の「眞一郎」は公証役場の職員の判断で許されなかった。従ってブラジル身分証明書にはただ「JOSE TANIGUTI」と登録されている。だが、家庭では眞一郎と呼ばれ、周囲の日本人も眞一郎と呼んでくれた。

 戦争が終わってから10年間ほど我ら日系ブラジル人は差別に覆われて、余儀なくその環境を貫かざるを得なかった。当時、少年時代の我らはそれでも親から無理やりにも禁止されている日本語学校に通わされた。

 警察に隠れてやる授業は3カ月おきに場所が代わった。いつも誰か生徒の自宅で集まってそこに教師が出席した。しかし思春期が来ると我らは日本語教育に対して親の意向に反抗するようになった。

 理由は余るほどあった。先ずこの国で出世するにはポルトガル語をしっかり覚えなくてはならない。ポ語を上手にこなせる日系人はブラジル人の仲間入りはすぐにできた。そして差別も殆どなかった。かえってポ語に鈍い我らはいじめられていた。

 ポ語の先生でさえいつかこんなことを言ったのを未だに覚えている。「お前さんたちはポ語を覚えにくい事情は家庭で日本語ばかり喋っているからだ。たまにはブラジルの名作でも読みなさい」。全く正当な言葉だと思った。

 

親の日本語にポ語で応えるように

 

 16歳ごろだったと推定する。それから親から日本語で喋りかけられるとこちらはあくまでもポ語で答えるようになった。それから1年後、日本語学校へ通うのも一切辞めた。辞めてから日本語は殆ど使わなくなった。みんな同じく、少年時代は日本語をある程度まで覚え、18歳未満で日本語を辞めている。

 大学に進学するため辞めるという理由もあった。大学では日本語を使う機会はおろか、卒業後は一切使わなくなった。使わないものはすぐ忘れてしまい、単語を喋るのにも苦労した。

 それから40年後、再び日本語を覚える決心したのは定年退職後、日系社会に携わってからだった。また一から日本語の勉強に十年間熱心に取り組んだあげくなんとか読書が出来るようになった。

 

定年退職してから日本語世界に戻る

 

 お陰で現在、和歌山県人会会長として日本語ができるため、日本、和歌山県との懸け橋になって活動している。

 しかし大概の日系人は生半可の日本語しかできず、それでも平気で暮らしている。この国で生活するには日本語など全く不要であり三世、四世の日系人大多数は日本語の片言しかできなくなっている。

 その事実は現在日系社会にひどく影響している。例えば奥地の各町に日本人会が存在している。50年前の役員会はおそらく日本語で会話をしていた。しかし、時代の移り変わりに従って現在の日系協会会長はポ語を第一言語として運営している。会議は全てポ語のみで行っている。会員数は抜本的に減少し、総会をしても20人せいぜいしか集まらなくなって困っている会も少なくない。衰退して滅びた日本人会も現れている。

 その原因は60年前の戦後に流行した対日本人差別の影響だったと思う。当時は「こんなつまらない言語を覚えたってなんの役にも立たない」と我らは思い込んでいたからだ。日本語を積極的に避けて、現地のブラジル人と結婚する日系人が増え、子孫らは全くブラジル人と変わらなく存在するようになった。その習慣は時代に亘って上昇している。

 現在の日本語学校には非日系生徒の方が多いところも増えている。彼らには日系人よりも日本に対する興味が深い。地方の日本人会に行けば、非日系の役員に会ってもおかしくないのが現実だ。ブラジル和歌山県人会も同じく、初代会長の竹中義助のころ会員数500人を超えた時代と比較すると、現在は会員数180人弱になっている。一世の親が亡くなると子弟はなかなか入会しない。

 

県庁も国際化への対応を

 

2017年10月29日に聖州議会で開催された『和歌山県人ブラジル移住100周年記念式典』の様子。(左から)ケーキカットで慶事を祝した仁坂知事、谷口会長、野口総領事、尾崎議長

2017年10月29日に聖州議会で開催された『和歌山県人ブラジル移住100周年記念式典』の様子。(左から)ケーキカットで慶事を祝した仁坂知事、谷口会長、野口総領事、尾崎議長

 県人会も限った事業以上できなく、地方の会員に対する待遇は3カ月版の会報以外にない。県庁からせっかく送って下さる「県民の友」は会員全体に配布しているが日本語の読める約50人せいぜいの一世の会員だけしか役に立っていない。日系会員の中でその月刊を断る声も聞こえてくる。

 それと同時に、地方にあった和歌山県人会は消滅し、昔の華々しい「在伯和歌山県人会連合会」の名称も意味なくなり、とうとう5年前、単なる「ブラジル和歌山県人会」に替えた。

 問題になっているのは、将来の後継ぎに日本語をしっかりと勉強してもらうことだ。さもないと和歌山県との交流は途切れてしまう恐れがあるからだ。現在就任した日系副会長に日本語の勉強に取り組んでもらうのにしばしば催促している。

 こんな状況で存在する現在の日系社会は言うまでもなく衰えている。今年の「和歌山県人会世界大会」の際この現象を訴える必要があると思う。県庁とのやり取りには日本語が大切だが、日本語のできない中南米の県人会も徐々に現れ、県庁国際課はあるいは英語、それともスペイン語、またはポルトガル語を覚えてくれることが望ましい。

 

 

 

image_print

こちらの記事もどうぞ