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連載小説=臣民=――正輝、バンザイ――=保久原淳次ジョージ・原作=中田みちよ・古川恵子共訳=(74)

 けれど行くとしたら、ある期間、農作業から離れなければならない。畑の野菜も棉も栽培もできないので、金も入らないことになる。その上、二人の往復切符、宿賃、外食の経費、いくらあっても足りない。どのぐらいの期間向こうにいなければならないのだろうか?
 金は少ししかなかった。往復の切符も買えないといった具合である。事情を盛一に打ち明けた。彼は正輝が困ったときはいつも相談にのり、なんとかしてくれて、今回も夫婦にいくばくかの金を貸してくれた。
 正輝夫婦はタバチンガからサンカルロス行きの始発の汽車に乗り、そこで、乗りかえてサンパウロに向うのだ。このときのようなに悲痛な思いで旅したことは後にも先にもない。時間との戦いだった。正輝は知りもしない大都会へ行こうとしており、房子にしても、ルス駅の周囲のほんの一部しか知らない。着いたらすぐ走り回って、どこか安く泊れる宿を探し、パスツール研究所に行って、ワクチンの注射を打ちはじめなくてはならない。
 リベルダーデ区のガルボン・ブエノ街、361番という住所をもっていた。そこには在ブラジル日本人同仁会があり、ふつう、同仁会とよばれていた。同仁会は1926年、当時の日本サンパウロの斉藤総領事によって29人の会員をつのって設立されもので、その年に、ブラジル政府から財団として認可されていた。
 財団の目的は日本人病院を建設することだったが、何十年か後に、サンタクルス社会福祉協会という名のもとで病院建設が達成された。当時は病院がないので治療が必要な移民を専門の医師に紹介し、必要があれば薬品を提供したりしていたのだ。
 正輝と房子はルス駅に着くと、タクシーでまっすぐ住所に向った。そこで、沖縄人二世の青年に迎えられた。二人はすぐ青年が沖縄方言、ウチナー グチのほか、ふつうの日本語もポルトガル語も話せることに気がついた。
 ジョゼという名前に、「あなたは日本人なのに、なぜ、ブラジル人の名前なのですか?」と聞いてみた。彼は日本人ではなかった。21年前、ジュキア地方のアナ・ディアスで生まれた二世で、山城ジョゼという名で登録されたという。沖縄語と日本語は親から習い、現在はポルトガル語を習得中なのだという。同仁会の事務局長で、やはり沖縄出身の翁長助成の助手だったのだ。
 夫婦にとって、同郷の人に会えたことは幸運だった。翁長氏は変わった経歴の人だった。東京商船大学を卒業し、そのうえ、短歌をたしなむ。1912年大学卒業と同時にペルーのリマに移住した。そこにはすでに日本人の集団地があり、翁長はすぐそれに加わった。
 2年後に、ブラシルに移り住むことをきめ、それまでとは全く異なったコースを選んだ。何人かの友人と未開の道を進み、ボリビア経由でアンデスを超えたのだ。ボートを使ったり、ラバの背にのったりしながら、長い道のりを歩いた。マデイラ・マモレ鉄道でポルト・ヴェーリョに到着。、舟でアマゾン川を下りベレンに着き、そのまま、リオに向った。リオでは給仕人として働き、そのあとサンパウロに移り、そこで、いろいろの職に就き、それからマット・グロッソ州のアキダウアナに移り、野菜の行商人として働いた。その後サンパウロに戻り、ジャーナリストになったのだ。

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