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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(83)

 当時のブラジル時報紙は
「モトゥカでは入植者はすぐにコーヒー樹を植えつけ、棉、米、トウモロコシ、そして、蚕の飼育をはじめた。病気や債務に打ち勝ち、文字通りなにもなかった状態から現在の基礎をつくりあげた」
と報じている。中心となったのは馬場直という男である。
 植民地創立以前、コーヒー園での契約をおえた4家族が地主エルミニア・フェラス・ボルバから伐採の一部の土地を請け負いした。彼らは切り倒した木を鉄道会社に枕木や燃料として販売した。また住宅の建築用につかい、一部の土地に作物を植え自家用にしたり、売ったりした。4家族はそのあと土地購入の契約をし、短期間にその土地を手にいれることができた。そして、その土地が「東京植民地」造成のきっかけとなった。当初、15家族60人から出発し、15年後には1500人もかかえる植民地に成長し、そこを中心に八つの衛星植民地が造られるほどに発展した。
 また、おなじころ他の移民たちも町の周辺や近郊で借地農をはじめた。町にでて洗濯屋、床屋、アイスクリーム屋、バール、パステス屋、露天市場や市営市場の八百屋といった職業につく者も現れた。さらに、このころ写真館、時計店、精米業などが新しい職種として登場しはじめている。
 アララクァーラには同じタバチンガから移ってきた高津井かすみがいた。タバチンガには中学が4年生までしかなく、一家は彼に勉学をつづけさせるために移ってきたのだ。この町にはアララクァーラ州立の中等学校があり、理工系の大学をめざす理科系と人文系をめざす文科系の2コースに分かれていた。一家は農業をすて町にでて、姉妹たちは美容院をもっていた。高津井はサンベント街に住み、同じ通りの1000番で洗濯屋をやっているまだ若い湯田幾江の家の前に住んでいた。
 正輝にも友人ができていた。サン・マルチーニョ耕地やグァタパラーで知り合った人、タバチンガ時代の友だちで、マサユキが病気でアララクァーラにきたとき知り合った人などだ。
 この町に移ることをいちばん勧めたのは津波元一だった。正輝が生まれた新城の村から北東に1キロほど離れた前川(沖縄ではメーガーと呼ばれる)出身の沖縄人だ。シマンチュのような者で、1919年グァタパラ耕地でいっしょに働いていた。偶然にも元一も正輝が乗ってきたあの古い若狭丸で渡航してきていた。さいわいなことに、一年前の1917年のことなので、1918年、正輝たちが経験した脳膜炎感染で多数の犠牲者をだした惨事は起こっていない。
 元一は正輝より8歳年上で、家族は沖縄人の間では津波(沖縄式にはチュウファ)という名でなく出身地のメーガーと呼ばれていた。アララクァーラ時代、正輝には年がずっと離れているように感じていた。元一は人生経験が豊富なうえに、18歳前後の子どもたちの父親でもあったからだ。そんなわけで、敬意をもて元一をメーガー ウスメー、つまり「メーガーじいさん」と呼んでいた。(ただし、彼がその場にいないときだけだ)。そして、ブラジル渡航直前に元一と結婚した妻のヲトのことをメーガー ハーメー、つまり、「メーガーばあさん」とよんだ。

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