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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(88)

 町には医療施設が完備されているので、正輝夫婦の心配はなかった。タバチンガで経験したようなことはここでは起きない。あのころよりずっと多くの日本人や沖縄人が住んでいる町の日常は正輝には居心地がよかった。たとえば、高橋先生のような人たちに自分のもっている知識を詳しく話すことができた。
 日本のニュースはアララクァーラには遅れて伝えられていたが、伝えれれる回数はおおく、しかも詳細であった。1920年代、日本はわずかながら議会制民主主義に向かい、左派の政治家が出現しはじめていたが、従来の教育から保守的傾向が強かった。教育システムは天皇を神聖とする国の宗教に支えられ、天皇陛下崇拝の道を進むようになった。
1926年10月の大正天皇の崩御後、裕仁天皇が後を継ぎ、昭和の代となった。公共、民間とも、また国家から民間の家族にいたるまで、議論の余地もない権威主義に巻きこまれていった。それは軍事をはじめ、経済にいたる各方面での過度の評価によって、強固な国粋主義精神を仕立てあげる結果となった。
 同時に、第一次世界大戦(1914年─1918年)後の世界混乱により、日本は外国からの攻撃を拒み、もし、そうなった場合、中国大陸に侵出するための強い政治、軍事力を備えねばという異常なほどの気運が急速に高まっていった。強化のためには社会方針として、国はすべての日本人に結束、忠誠、愛国心を教えこんだ。これは統治する人間や政治家だけにではなく、日本人の血を引き、特にその精神を継ぐすべての者のための政策だった。
 日本軍は満州の南、朝鮮の最北の西にあたる借地領土として知られていた広東(カントン)のある遼東半島を占領した。そのうえ、中国の北東が完全に日本の統治下におかれることを願望していた。関東軍の名で知られる部隊は以前から満州を日本軍の手におさめるためのでっちあげを企んでいた。1928年、関東軍は満州の張作霖の暗殺をくわだてた。日本政府は中国大陸侵出のため、満州占領は計画のうちにはあったが、この暗殺には賛同しなかった。
 1931年、関東軍の計画実行に都合のいい機会がおとずれた。中国政府は長江の氾濫によりかずかずの困難な問題を抱えていた。その2年前の1929年からはじまった資本主義体制ではニューヨーク株式市場が破綻にいたる歴史上最大の経済危機にあったアメリカとイギリスも困難な問題を抱えていた。
 その年の9月18日、関東軍は満州の奉天の郊外で鉄道線路を謀略で爆破した。付近を巡回中の中国軍は反撃してきた。この反撃を口実に日本軍は奉天の軍事工場、空港、その他の軍事施設を占領し、三ヵ月後には「奉天事件」という名で知らされた。日本軍は満州の他の地区をどんどん占領していった。中央政府から関東軍隊長に満州占領をそれ以上進めないよう指令が出されたが、それが意図的に後らされたため、着いたときはすでに事態を収集できない状態だった。1932年2月18日、清朝の最後の皇帝、溥儀が中国から独立し傀儡政権、満州国を設立した。満州全土のコントロールを手にした日本軍は隣の熱川(現在の錦州)を占領、1932年には北中国を統する政治体制を成立させようとしたが失敗に終った。
 1937年7月7日、北京に近い盧溝橋で日本軍と中国軍の間に衝突事件が発生した。またたく間に北京と天津は日本軍の手におちたが、それが回りに飛び火し、9月にはその地方に15万人もの日本兵士が送り込まれた。戦闘は南部の上海、そして、長江河を経て、首都南京まで広がった。
 9月半ばに首都も占領された。侵略者たちには思うがままに行動できた。虐殺、婦女暴行、略奪、放火の日本軍の残酷さはその10年後に勃発した第二次世界大戦が終るまでぬぐわれることがなかった。
 日本軍のはなばなしい活躍はブラジルの日本移民に伝えられたが、残虐行為はすべて伏され、たとえ洩れることがあっても、はげしく否定された。

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