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「葉月」という月=義父・酒井と崎山精神=パラグァイ在住 坂本邦雄=《中》=邦人移住の草分けになった義父

パラグァイ邦人移住の嚆矢となったラ・コルメナ移住地の公民館入口(2006年11月撮影)

後妻テル、私はその長男

 一方、酒井の後妻となったテルは山梨県押越(昭和町)の旧家の出である。父の清水吉重(しみずきちじゅう、筆者の祖父)は俳号を舎生舎清水(しゃせいしゃせんすい)と呼ぶ蕉風俳諧の宗匠だった。
 そして、栃木県宇都宮市で代々かなりの商家だった「丸邦屋」が嫡子(正妻が生んだ男子のうち最も年長の子)坂本利兵衛が未成年の頃、父母が相次いで早世、「丸邦屋」は破産したので利兵衛はお家再興を志して上京した。
 後に横浜市で寿司屋を経営していたその利兵衛とテルは1928年に結婚。翌年4月4日に長男である筆者と、1931年10月21日には長女洋子が出生。それぞれ宇都宮の坂本家本籍に入籍された。
 早くから海外渡航を夢見ていた利兵衛は、横浜の寿司屋を畳み、一家は1932年に大阪商船のモンテビデオ丸でブラジルへ渡航。酒井の入植先である稲田米作耕地の隣のサンパウロ州カニンデ駅サンベネジットのカフェー耕地に配耕され、義妹タツも構成家族として同伴入植した。
 しかし耕地入植後、間もなく、昔の事で、ロクな医療施設も無い耕地で、未だ誕生日前の長女洋子が、病名も不明な熱病で死亡。続いて父親の利兵衛も、ブラジルに着いて1年もしない中に、同じ熱病で亡くなった。享年42歳だった。
 二人共、在サンパウロ帝国総領事館の分館が在ったリベロンプレット市の共同墓地に埋葬された。

酒井家と坂本家

 思えば、酒井一家と坂本一家は、同船者ではないが、同じ年に夫々前後してブラジルへ渡航している。
 そして、縁あってヤモメ同士の再婚で、前記の総領事館分館で婚姻届け出をだし、母テルは酒井家に入籍した。だが、連れ子である筆者は坂本家の嫡子なので、当時の戸籍法では長男は移籍出来なかった。だから、今でも坂本の名字を名乗っている訳だ。
 こうして、新酒井一家は稲田耕地で1935年10月頃まで、日本語教育に困っていた入植者の子弟のために、夫婦してほとんど自費をもって、自宅で夜間日本語学校を開いていた。だから「サイタ サイタ桜ガサイタ」等と、生徒が昔の小学校の読本を朗読する声を、筆者は良く聞いたものだ。
 今は忘れてしまったが、耕地の入植者は熊本県の出身者が多かったので、筆者は熊本弁を自然に覚えた。
 この他、酒井はケミスト(化学者)でもあり、医者も居ない耕地でマラリア患者の応急注射くらいの世話は惜しまなかった。だから、耕地の人達から非常に慕われていた。
 そして、1935年10月に一家3人は、耕地の入植者達から大変惜しまれながら、酒井の植民学校の同窓生、石井道輝氏を頼って、パラグァイに転住した。
 その動機は、近々パ国に初めての日本人移住地が出来るので来ないかと前記の石井氏に勧められたのと、妻テルが伯国で乾燥期には、毎度酷いゼンソクに悩んでいた問題があったと思われる(この転地のお陰か、不思議にテルの喘息はパラグァイに来てから治った)。
 残念だったのは、一家がパラグァイに転住して間もなく、ブラジルに残った酒井の義弟が前記のリオ・グランデ河で水死、及び他の耕地に嫁いで行ったテルの義妹(坂本)タツも病気で亡くなったという相次ぐ訃報に接した事だった。
 3年間も続いたボリビアとのチャコ戦争が終わった直後、我々一家3人がパラグァイのアスンション市に着いた。1935年の10月末頃だった。

パラグァイの草分けに

 パラグァイに着いてからアスンションでは、酒井は石井氏の岳父星田宗人氏が経営していたバーでアイスクリーム等の製造を手伝ったり、後には近郊で搾乳の牛飼いをしていた中尾英積氏の牧場で、一家はしばらく厄介になった。
 そして、例のラファエル・フランコ大佐の起こした二月革命の政変で、種々遅滞していた日本人移民導入が、極めて制約された条件で、二月党(フランコ大佐の)新政府により、1936年4月30日付大統領令№1026をもって紆余曲折の揚句、晴れて認可された。
 そのようにして、初めてのパラグァイ日本人集団移住地に決った、元地主イグナシオ・エスコバール氏の旧「ラ・パルミーラ」(約8300ヘクタール)の土地を、日本人が「ラ・コルメナ」(蜜蜂の巣)と改名した。その入植地開拓の準備のために、内田千尋初代移住地支配人、笠松尚一技師と酒井好太郎の3人が、パラグァイのめでたき独立第125周年記念日に当る1936年5月15日に、首都よりイビチミー駅経由、東南約130キロの地点に位置するラ・コルメナに入植第一陣として乗り込んだのである。

ラ・コルメナ日本語学校の様子(2006年11月撮影)

 このラ・コルメナ入植記念日が、のちほどパラグァイにおける日本人移住記念日の元になったのは周知の通りである。
 それから酒井はラ・コルメナでパラグァイ拓殖組合の事務所職員、日系最初の産業組合(農協)創立者となった。そして戦後のピラポ移住地では、旧移住振興㈱現地事業所の勤務を終えた後に、同移住地で市街地に住宅地を求め、夫妻ともども生活のための小店を経営していた。

新ピラポ自由メソジスト教会

 その傍ら隣接地に、ブラジルのサンパウロ市にある日本自由メソディスト教会(田名網七五三吉(しめきち)牧師)の支援で、エンカルナション市におられた塚本登牧師とヒューストン(米国人)牧師参加の元に、ピラポ自由メソジスト教会が建設された。酒井はその管理人兼代理宣教師を務め、入植者の「心の開拓」に努力した。 《つづく》

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