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移民史料館=三菱重工が模型船を寄贈110周年記念して「さんとす丸」=「昔乗った人も見に来て」

除幕式を行った一行

 サンフランシスコ講和条約が発効となり戦後移住が再開した1952年に、戦後初めて移民船として建造された2代目「さんとす丸」。それを担当した三菱重工株式会社は、9月26日に文協ビル内のブラジル日本移民史料館(山下リジア玲子運営委員長)の8階で、日本人移民110周年事業の一環として「さんとす丸」の模型を寄贈した。日本の本社から来伯し、贈呈式に参加した矢竹和夫グローバル拠点支援室長は、「ブラジル日本移民110周年の記念事業に携われて光栄です」と模型に見入る周囲を眺めほほ笑んだ。

 贈呈式には、矢竹室長、ブラジル三菱重工の馬場新副社長、移民史料館の岩山明郎(としろう)運営副委員長、西尾ロベルト運営副委員長が参加。4氏がガラスケースを覆う白い布を取り除くと、海に浮かぶ「さんとす丸」の模型が披露された。

2代目「さんとす丸」

 模型のモデルとなった2代目「さんとす丸」は、日本政府の計画造船の下で建造された。当初は貨客船となる予定だったが、移民船となったため急きょ旅客設備を増設したという。
 大阪商船(現商船三井)の所有船として三菱神戸造船所(三菱重工の基幹造船所)で52年7月12日に起工。同年12月10日に竣工し、12月28日には17家族54人のアマゾン移民を乗せて、神戸港から処女航海を行った。その後、72年に廃船となるまで、多くの日本人移民を乗せて航海した。
 岩山運営副委員長は「史料館の展示近代化を考えていた時に、戦後の移民船の模型がなかったので、2017年末に馬場副社長に依頼した」と説明する。
 依頼を受けた馬場副社長は何度も移民史料館に足を運び、打ち合わせを重ね、数ある移民船の中からブラジルの港の名前が付いた「さんとす丸」の模型作製が決定した。だが、当初は設計図が見つからず、製作は難航したという。
 馬場副社長は「やっと図面を見つけ、作り始めたのは昨年11月。本当は110周年事業として去年完成の見込みだったんですが」と苦笑する。
 製作は、日本の船舶模型の老舗である小西製作所が担当。細かな部品を1つ1つ手作りし、約1カ月前に完成した。実際の全長144メートルに対し、展示スペースに入る120分の1のスケールの模型が収められた。
 「さんとす丸」の模型は、8階展示場内の「戦争という長いトンネル」を潜り抜けた後に、戦後の「日本移民の再開」を象徴したものの一つとして展示されている。
 西尾運営副委員長は「暗い戦争の時代から出て、明るいコロニアの時代へ出発する雰囲気に合っている。この船に乗って移住して来た人も大勢いると思うので、ぜひ見に来てほしい」と語った。


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 三菱重工の矢竹和夫グローバル拠点支援室長は、前日の25日に来伯し26日に帰国する多忙なスケジュールの中、移民史料館の贈呈式に参加した。岩山明郎(としろう)運営副委員長の案内のもと史料館を見学していると、「実は私の曽祖父は1906年に本州から北海道へ移住していて、とても苦労したと聞いている」と話し始めた。史料館内の様子に、「北海道博物館で見た展示と似ている」と懐かしくなったのだとか。あと2年遅ければ、笠戸丸でブラジルに移住していたかも?
   ◎
 「さんとす丸」の模型は船底が海に浸かっているが、これは岩山運営副委員長いわく「海を越えてきた感じを表した」のだとか。納得して見ていると、西尾ロベルト運営副委員長が「どうして日本の船は『丸』と付いているんだ。ポ語『Mar(海)』と関係があるのか?」と聞いてきた。調べてみると、一般社団法人日本船主協会のHPによれば、諸説ある中で代表的な説は「麿(まろ)」の転化なのだという。元々自分のことを「麿」といっていたのが、敬愛の意味で人名に付けられ、さらに愛する物にも転用し、やがて「丸」に転じて船に付けられたのだという。コロニア的には、西尾運営副委員長の説を取りたいところ?

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