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特別寄稿=500人で2万人と戦った日本人=柴五郎中佐の北京城籠城物語=サンパウロ市在住  酒本 恵三

北京籠城の指揮を執った柴五郎(陸軍中佐当時、1859―1945年、Unknown author/Public domain)

 たった500人足らずの兵を導き、20万の敵を相手にその危機を乗り越えた、ある一人の日本軍人がいました。
 「日本は素晴らしい指揮官にめぐまれている。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめており、私は、自分が既にこの小男に傾倒していることを感じている」。
 これは当時の北京城内でその「小男」と共に戦った英国人シンプソン氏の日記の抜粋です。
 そして、その小男の名は柴五郎(シバゴロウ)、日本の陸軍軍人です。その勇ましい武勲により欧米各国からも勲章授与が相次ぎ、欧米で広く知られる最初の日本人となりました。
 そして柴は、事実上の日英同盟のきっかけをつくった影の立役者としても評価されています。一体、この柴五郎という日本人はどんな武勲を成り遂げたのか? 日本だけでなく世界の歴史に名を残した日本人柴五郎の伝説を紹介します。

絶望的に不利な籠城戦を指揮した日本人

 時は1900年中国∙北京義和団と称する反乱軍は、「扶清減洋」(清をたすけ、外国勢を滅ぼす)の旗を掲げ、世界各国の公使達を北京城に追い詰めていました。
 20万人以上の大軍が押し寄せる北京城に立てこもるのは、わずか4千人とはいえ、その殆どが民間人であり兵士と呼べる数は500にも満たなかったそうです。
 ところがこの圧倒的不利で絶望的な少数の籠城軍はおよそ2カ月間にわたり北京城を守り抜いてしまいます。
 何をかくそう、この危機的状況を指揮して乗り越えたのが後に、イギリス公使に「北京籠城の功績の半ば、とくに勇敢な日本兵に帰すべきものである」と言わしめたほどの人物・柴五郎、その人だったのです。
 義和団と称する反乱軍は、電信設備を破壊し、いよいよ公使館に迫ろうかと言う時、各公使館は清国に義和団を鎮圧するよう要請します。そして天津外港のタークーに停泊中の各国海軍陸戦隊に派遣を要請しました。
 ちなみに北京にあった公使館は英国、米国、仏国、露国、豪州、伊国、蘭国、ベルギー、西国、日本の11カ国です。この11カ国の海軍陸戦隊計417名(日本25名)が北京に到着します。
 世界各国の公使たちの入り乱れていた北京城内は、大軍を前にして混乱の極みに達していました。上記11カ国からなる多国籍の人々が入り乱れまとまるものもまとまらない混乱状態です。
 さらに、この時代、日本はどちらかというと他国になめられた存在でした。作戦会議中、柴五郎は冷静沈着でそして、黙ってきくばかり。
 そして、時折「セ・シ・ボン(結構ですな)」と、ボソリ呟くばかりなのです。
 しかし、これは日本がなめられているこの状況で高らかに発言しても意味はなしと分かった上での行動。柴五郎の心は十分に練られていました。
 逆に、今の状況で発言すると小さな東洋人の発言が欧米列強の反発を招くものだということを、十分に心得ていたのです。

義和団の乱における天津の戦い。日本国軍人が戦う様子(Unknown author/Public domain)

西洋列強に存在を認めさせ、日英同盟の端緒に

 しかし、それでもなんと、会議は柴五郎の思い描く方向へと進んでいくのです。彼がボソリとつぶやくたびに、世界の列席者たちは、その方向へと導かれていくことに気ずきませんでした。
 彼はたまの短い発言や、うなずきにより場を支配していたのです。それほどの理があり、彼の落ち着きはいつしか皆の安心になっていました。
 まさにシンプソン氏がいうように「この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめてしまっていた」。そして、その秩序こそが北京城を最後まで一丸となって籠城させた源だったのです。
 間もなく清国義和団の一斉攻撃が始まります。そんな時、公使館で最大のイギリス公使館に穴があけられました。そこには婦女子や負傷兵が多くいたため、柴五郎中佐は安藤大尉以下8名に命じ、英国公使館に救援に向かわせます。
 ただでさえ広大な粛親王府を守るのに兵士不足だったにも関わらず、英国公使館に即決で救援をやったのです。
 ――即決です。そして安藤大尉以下8名は敢然と清国兵に切り込み、20名ほどをあっという間に切りつけます。
 この時が、祖国日本の名誉を守り、三国干渉以降見下されていた欧米列強に、日本人の優秀さを認めさせ、のちの日英同盟のきっかけとなったのです。
 そして、ここから各国の占領統治が始まりました。それは同時に各国の占領地での略奪∙強盗の始まりでもあります。この時代、それは当然で当たり前の事でした。
 しかし日本の占領地では一切の略奪∙強盗が認められませんでした。柴五郎は厳しい軍律をもって仁政を敷いたのです。これにもまた各国の将兵が驚愕します。
 そして、この噂を聞きつけた各国の占領地の住民が日本占領地へと移り住んできたのです。こうした日本の優秀さと信頼度の高さは、やがて世界最強の同盟を誕生させます。黄色人種の貧国・日本が、世界最強の英国と同盟を結ぶのです。

拒み続けてきたイギリスが東洋の貧国と同盟

 当時、イギリスは「栄光の独立」を誇りに、どんな事があっても他国と同盟を結ぶということはありませんでした。
 もちろん、柴五郎の実績はきっかけであり、日本とイギリスの利害も一致しています。どういうことかというと、この時ロシアは満州全域をどさくさに紛れて制圧していきます。支那での権益を確保したイギリスはロシアの南下を恐れていました。
 そして日本も満州を制圧したロシアが南下する事は日本にとって脅威でした。だからと言って信頼できない国とイギリスが同盟を組むなどあり得なかったのです。
 ましてや同盟を拒み続けてきたイギリスが、東洋の貧国と組むことは断じてあり得ません。
 しかしこの義和団の乱で見せた日本人の優秀さと信頼感は、イギリス公使マクドナルドによって本国へ伝えられます。
 そして柴五郎中佐の北京籠城での活躍は世界に広く認知され、欧米各国で受賞のラッシュを受けます。
 また「コロネル・シバ」の愛称でヨーロッパで最も広く知られた最初の日本人となったのです。たった500人たらずの兵で、20万人の敵を相手にその危機を乗り越えた日本軍人柴五郎日本は素晴らしい指揮官が本当に多く存在していますね。
 最後に柴五郎の輝かしい受賞経歴をご紹介しましょう。
*イタリア=エマヌエル皇帝より北京籠城の功によってサンラザール三等勲章を受章
*フランス=ルベー大統領より金の鎖付きの金時計を受賞
*スペイン=スペイン皇帝より武功赤十字二等勲章を受章
*ベルギー=ベルギー皇帝より賞詞と武功勲章を受章
*ロシア=ニコライ二世よりアンナニ等勲章を受章
*日本=明治天皇より全し勲一等瑞宝章を受賞と実に多く受賞しました。

義和団の乱と戦う連合軍の兵士。左から、イギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本(AnonymousUnknown author/Public domain)

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