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知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(3)

第2節 古代国家の形成

天瓊を以て滄海を探るの図(小林永濯・画、明治時代)。右がイザナギ、左がイザナミ。二人は天の橋に立っており、矛で混沌をかき混ぜて島(日本)を作っているところ(From Wikimedia Commons)

 日本でもっとも古い歴史書である『古事記』『日本書紀』に、神話の形で、日本の国の成り立ちが書かれている。
 『古事記』は712年、『日本書紀』は720年に完成した。神話や古い伝承は超自然的な物語をふくみ、ただちに歴史的事実として扱うことはできない。
 しかし、これらに記された神話・伝承は、古代の人々が、自分たちの住む国土や自然、社会の成り立ちを、山や海への自然崇拝や稲作祭祀など、縄文 ・ 弥生以来の信仰なども取り入れながらまとめたものと考えられる。
 神々が織りなす物語は一貫したストーリーに構成され、大和朝廷の始まりにつながっている。
 【国生み神話】天地が分かれた時、天上(高天原たかあまはら)には神々があらわれた。男神のイザナキの命(みこと)と女神のイザナミの命は夫婦となって、日本列島の8つの島々を生んだ。
【日本の神々の誕生】イザナキとイザナミは、更に山の神、海の神、風の神など次々に生むが、イザナミは火の神を出産した時のやけどがもとで、亡くなってしまう。
 イザナキは、愛する妻を連れ戻そうと黄泉(よみ)の国に行き、亡きイザナミに「黄泉の国の神様に頼んでみるので、その間、私のことを見ないでください」と言いわたされる。
 しかし、イザナキは約束を守れずに、妻の変わり果てた遺体を見てしまい、おどろきのあまり逃げ出してしまう。黄泉の国から帰ってきたイザナキは、死のけがれを清めようと川でみそぎをした。
 目や鼻を洗っていると、そこからアマテラスオオミカミ(天照大神)、スサノオの命、ツクヨミの命の3柱の神が生まれた。アマテラスは太陽を神格化した女神で日本の最高神であり、皇室の祖先神とされている。
【出雲神話】いっぽう、アマテラスの弟、スサノオの命は地上にくだり、八岐大蛇(やまたのおろち)から土地の神の娘を救って妻とした。その子孫に、オオクニヌシの神(大国主神)があらわれ、出雲地方を中心に地上を治めた。この一連の物語は、出雲神話とよばれる。
【国譲り神話】ところが、高天原ではアマテラスの孫、ニニギの命に地上を治めさせることに決め、交渉によってオオクニヌシの命に国土を譲らせた。
【天孫降臨神話】三種の神器をたずさえたニニギの命が、神々と共に地上に下った話。
【日向3代神話】日向(ヒムカ)におりたったニニギの命が、山の神の娘をめとって、ホオリの命を生み、ホオリの命は海の神の娘と結ばれ、ウガヤフキアエズの命を生んだ。その子供がカムヤマトイワレヒコの命である。イワレヒコの命は、天の霊力を血筋として受け継いだけでなく、山の神や海の神の霊力をその身体に取り込んだ。
【神武東征伝承】そして瀬戸内海を経て大和に入り、初代の神武天皇として即位した。これが大和朝廷(やまとちょうてい)の始まりである。神話 ・ 伝承はこのように日本の国の成り立ちを語っている。2月11日の建国記念日は神武天皇が紀元前660年の1月元旦に即位したとされるので、その日を太陽暦であらわしたものである。

古墳から分かる大和朝廷

世界最大規模の墓である仁徳天皇陵(Copyright © National Land Image Information (Color Aerial Photographs))

 3世紀後半、大和(奈良県)の豪族を中心とする強力な政権が誕生した。これを大和朝廷と呼ぶ。大和朝廷は、やがて国内を統一したが、その経過については、古墳の普及のようすから推定できる。
 3世紀ごろより日本ではまるで小山のように盛り上がった大きな墓がつくられるようになった。これが古墳と呼ばれるもので、古墳をつくることが流行し、6世紀末までの約300年間を古墳時代と呼ぶ。
 古墳は、現在ではこんもりとした緑に覆われた山のようだが、つくられた当時は、表面に石が敷き詰められ、太陽の光に照り輝いていた。古墳の周りや頂上には、円筒形の人形や人物、家屋、馬などをかたどった埴輪が並べられ、墓として威容を誇っていた。
 大規模な古墳の多くは、入り口となる四角い形の手前の部分と、丸い形の後ろの部分からなる前方後円墳であった。円い部分の地中に石室があり、死者を葬った棺が安置され、鏡、玉、剣や馬具、農具などの副葬品も入れられた。
 古墳に葬られていたのは、その地域の豪族だった。大和や河内(大阪府)では、巨大な古墳が多数つくられている。これは大和朝廷が、この地域の有力な豪族たちが連合して作った政権だったことを示している。
 前方後円墳は、大和朝廷の古墳形式であり、南は鹿児島県、北は岩手県にわたる国内各地に約5200基も存在する。これらは大和朝廷の勢力の広がりを反映したものと考えられている。
 豪族たちの連合の上に立つのは、大王(のちの天皇)で、その古墳はひときわ巨大であった。仁徳天皇陵(大仙古墳)は、世界でも最大規模の墓である。

朝鮮半島と大和朝廷

 220年に漢が滅んでから6世紀末までの400年間、中国は内乱と小国分立が続き、東アジアの国々に対する影響力は弱まった。
 朝鮮半島には高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の3つの国があったが、やがて北部の高句麗が強大となり、4世紀後半には、半島南部の百済も攻撃した。
 百済は大和朝廷に助けを求めた。高句麗の広開土王(こうかいどおう)の碑文によると、「倭の軍勢が海を渡り、百済 ・ 新羅を『臣民』としたので、高句麗王がこれを撃退するために兵を送った」と記されている。
 大和朝廷は高句麗と戦ったが、次第に形勢不利となり敗れて、404年、朝鮮半島より兵を引いた。
 5世紀中ごろ、中国では漢民族が宋(南朝)と遊牧民の北魏(北朝)が争う南北朝時代を迎えた。
 一方、日本は大和朝廷の支配が広がっていった。大和朝廷が、宋に朝貢したのは、北魏と同盟関係を結んでいた高句麗に対抗し、朝鮮南部への軍事的影響力を維持するためであった。
 倭王は宋の皇帝に対して、朝鮮半島南部の軍事的支配権を認める称号を要請し、認められた。しかし称号は役にたたなかったので、倭は外交戦略を転換し、宋には使節を送らなくなった。
 6世紀になると朝鮮半島では高句麗に加えて、新羅が力を伸ばした。両国に圧迫された百済は苦しい立場におちいった。百済は日本に援軍を求めて、日本へは技術者や知識人を送った。新羅は任那(みまな)の領有を百済と争い、562年には任那を併合した。
 この問題に日本が介入するのをさけるため、任那の物品を日本へ贈り、友好的な姿勢をとった。6世紀後半には、高句麗も百済・新羅同様、日本に使節を送り修好を結んだ。

仏教の受入れで論争

仏教のシルクロード伝播(Gunawan Kartapranata)

 紀元前6世紀ごろ、インドで生まれた仏教は、2方向に分かれてアジアに広がった。
 南方ルートを通って東南アジアに伝わった仏教は、「上座部仏教」と呼ばれ、厳しい修業によって個人が救われるという教えであった。
 北方のシルクロードを通って中国に伝わった仏教は、「大乗仏教」と呼ばれ、仏教の力で大衆を救い国家を護ろうとするものだった。
 5~6世紀の南北朝時代に仏教は大きく発展し、朝鮮半島の百済には南朝の宋から伝わった。6世記の前半、当時の百済は、高句麗・新羅に攻め込まれて存亡の危機にあった。百済は、日本に再三にわたって、軍事援助を求めた。
 百済の清明王は、日本との同盟を強固なものにする決め手として、552年、金銅(銅 ・ 青銅の金メッキ)の仏像と経典を大和朝廷に献上した(仏教伝来)。日本に仏教が伝わったのは、欽明天皇の時代(539 – 571)の御世で、天皇は仏教を受容すべきかどうかを豪族たちにはかった。
 国際情勢に詳しい蘇我氏は「外国はみな、仏教を信じている」として、仏教を積極的に取り入れることを主張した。
 それに対し、軍事と祭祀を担当する物部氏は、「外国の神を拝めば、日本の国の神の怒りをかう」と述べて反対した。
 こうした仏教導入をめぐる蘇我氏と物部氏の論争を崇仏論争という。この時、欽明天皇は、蘇我氏が仏教を私的に礼拝することを許した。
 その後、疫病がはやると、国の神のたたりであると信じた物部氏は、仏像を川に流して捨てるなどしたので、この対立が蘇我 ・ 物部の戦争に発展し、蘇我氏が物部氏を滅ぼした。
 蘇我氏は日本初の仏教寺院として飛鳥寺(あすかでら)を建てた。両者の争いは仏教の教義に関わる対立ではなく、仏を外来の神ととらえた上で、その神が福をもたらすか、禍を引き寄せるかという考え方の違いであった。それは大和朝廷の主導権争いでもあった。
 東アジアの戦乱を逃れて、多くの難民が一族や集団で日本に移り住んだ。これを帰化人または渡来人(とらいじん)といった。百済からの渡来人は土器(須恵器=すえき)や金属器の加工、土木 ・ 建築や儒教を伝え、漢字による朝廷の文書の作製にも力を発揮した。
 仏教が伝来すると、百済から仏像、仏具の工芸家や寺院建築の工人が渡来し、仏教芸術の発展の基礎を築いた。


第3節 律令国家の建設


 6世紀の末、日本には、聖徳太子(574 – 622 うまやどのおうじ)という若い指導者があらわれた。皇族の一人として生まれ、一度に10人の訴えを聞き分けることができるという伝説を残しているほど聡明な人物だった。
 初めての女帝・推古天皇が即位すると、593年、聖徳太子は、20歳の若さで天皇を助ける摂政(せっしょう)となった。
 その頃、中国大陸では大きな変化が起こっていた。589年に隋王朝が、約300年ぶりに全土の統一を果たした。強力な軍事力を持つ隋は、東アジアの国々にとっては脅威であった。
 朝鮮半島にあった百済、高句麗、新羅は、隋によって冊封(さくほう―みつぎものを持参して、臣下としてあいさつにいくこと)された。日本も如何に対処するか迫られた。
 聖徳太子は、まず隋へ遣隋使をおくった。遣隋使によって隋の強大さを知った太子は、日本が独立した国家として、更に発展するためには、大陸から優れた技術や制度を取り入れる必要があると考えた。聖徳太子は隋と対等な外交をするために、国内の改革を進めた。
 蘇我氏の血筋を引く太子は、蘇我馬子(そがのうまこ)と協力して、政治のやり方を改めた。本当の狙いは、豪族の力をおさえ、大王(天皇)を中心とした国家の仕組みを整えることであった。
 603年、太子は有力な豪族が役職を占める慣例を改め、家柄にかかわりなく、国家のために有用な人材を積極的に役人として採用した。
 次いで、冠位十二階の制度を取り入れた。また、604年には、17条の憲法を定めた。その内容は、豪族が争いをやめ、天皇中心に協力してゆくことなど求めたもので、公のために働く役人の心構えと国家の理想が示された。人々の和を重視する考え方は、その後の日本社会の伝統となった。


《補講》国譲り神話と古代人

 『古事記』に書かれた「国譲り」の神話には、古代の日本人の思想を読み解く手がかりが含まれています。
 第一に、アマテラスは高天原の神々と相談して使者の派遣を決め、オオクニヌシも息子の意見を聞いて身のふり方を決めています。日本には、できるだけ話し合いで物事を決める合議の伝統がありました。
 第二に、世界の他の地域なら、国土を奪い取る皆殺しの戦争になるところですが、「国譲り」の神話では、統治権の移譲が戦争ではなく、話し合いで決着しています。 
 第三に、オオクニヌシの心境を考えると、自分は何も悪いことをしていないのに、 苦心の末につくりあげた国を他者に譲るのですから、オオクニヌシはさぞかし悔しい思いをしたに違いありません。
 そこで希望通りの巨大な神殿をつくり、オオクニヌシを祀りました。それが出雲大社です。勝者は敗者に対して、その功績を認め名誉をあたえ、 魂を沈める祭りを欠かさない。古代の日本人はこうした政治のあり方を理想としたです。
 今の出雲大社は高さが24mですが、最近、宮柱の根元が発見され、確かに奈良の大仏よりも高い48mの空中神殿を建てることができたことがわかりました。天皇の宮殿や奈良の大仏よりも巨大な空中神殿をつくってオオクニヌシを鎮魂したのは、日本が国家統一を成し遂げる上で「国譲り」がそれだけ重大な出来事だったことを証明しています。
 2003年に出雲大社を訪問された当時の皇后陛下(美智子妃)は次のお歌を詠まれました。

国譲り祀られましし大神の奇しき御業を偲びて止まず

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