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日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で(1)=上塚植民地を襲ったスペイン風邪

 ブラジルの新型コロナウイルスの感染拡大は、まったく終息の気配をみせない現状だ。だが、ブラジル日本移民史は開拓の歴史だが、ウイルスのような感染症との戦いの連続だった。戦前の南米は熱帯性感染症の巣窟と見られており、温帯で生まれ育った日本移民にとってはDNAにまったく耐性のない病原体とのむき出しの格闘だ。日本移民112周年というタイミングにおいて、何げない当時の移住地の日常は、今以上に危険な感染症との戦いの中で過ごされて来たことを、改めて噛みしめてみたい。


 現在、新型コロナウイルスが世界を震撼させているが、これはいわゆる「感染症」の一種だ。感染症とは、なんらかの病原体が体に侵入して症状が出る病気のことだ。病原体とは病気を起こす小さな生物のことで、その大きさや構造によって細菌、ウイルス、真菌、寄生虫などに分類できる。新型コロナはもちろんウイルスだ。
 100年前のスペイン風邪はアメリカが発祥で、そこだけで50万人を越える死者を出した。世界全体の推定感染者数は世界人口の25~30%(WHO)に上る。世界人口の3分の1、約5億人が感染し、世界全体で1700万人以上が亡くなった。
 この時、ブラジルでもスペイン風邪第2波の直撃を受け、人口の65%が罹患して3万5千人の死者がでた。

 ブラジル・エスコーラサイト(https://brasilescola.uol.com.br/historiag/i-guerra-mundial-gripe-espanhola-inimigos-visiveis-invisiveis.htm)によれば、1918年9月に英国を出航した客船デメララ(Demerara)の乗客が、サルバドール、レシフェ、リオに着岸して感染を拡大させ、それが陸路でサンパウロにも広がった。
 特に被害が大きかったのは当時の首都リオで死者1万2700人と、全死者の3分の1を記録した。次がサンパウロ市で5331人だった。だが、アマゾニアまで死者がでた。
 《あまりに短期間に死者が多数出たので、棺が足りなくなり、墓掘り人夫は忙しく穴を掘り続けた》とある。

スペイン風邪の患者でごった返すアメリカ軍の野戦病院(Image: courtesy of the National Museum of Health and Medicine, Armed Forces Institute of Pathology, Washington, D.C., United States)

スペイン風邪の患者でごった返すアメリカ軍の野戦病院(Image: courtesy of the National Museum of Health and Medicine, Armed Forces Institute of Pathology, Washington, D.C., United States)

 スペイン風邪による日本移民への影響は、一般には「サンパウロ市での感染が多かったが、日本移民の大半はまだ農村部にいたから被害者は比較的に少なかった」と言われている。
 だが、改めて文献を調べてみると、やはり犠牲者はそれなりの数が出ていたようだ。例えば『移民四十年史』(香山六郎編著、1949年、305ページ)の「スペイン風邪」項には、こんな逸話が見つかった。
 《一九一八年の末から世界中の人間をゴホンゴホンいわせたグリッペ・エスパニョーラが流行してエイトール・レグル(上塚周平植民地=現在のプロミッソン)の原始林開拓者も感染した。谷子(妻)もこれに冒され、私も青いはなみずを垂らして一カ月近く床についてしまった。二月初めお隣りの高橋次郎右衛門さんの妻君は産後の悪感冒にやられて三十七才の若さで床の中に坐ったまま冷たくなっていた》
 1919年正月頃、香山六郎本人も「一カ月近く床についた」とあるから、症状はかなりきつかったようだ。《一九一八年が逝って開拓地の初新年が来た。谷子も敏信も私もグリッペにやられて正月気分は出なかった》とあるのに加え、《この頃ゴンザガ区バラマンサ区でもグリッペ組がむこう鉢巻きで相当寝込んだときく》と書かれている。
 本面下段にある小説「クリスト・レイ」の舞台となったゴンザガ区だ。植民地全体でかなり感染拡大していたようだ。(つづく、深沢正雪記者)

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