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知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(8)

 武家政治を象徴する美術は、彫刻によくあらわれている。写実的で力強い造形が、運慶・快慶とその弟子たちによって生み出された。東大寺南大門の金剛力士像は隆々たる筋肉と憤怒の表情で見る者を圧倒した。
 興福寺にある古代インド仏教の学者無著(むちゃく)とその弟子世親(せしん)の像も運慶の作とされる。重源によって宋の建築様式で再建された東大寺南大門は、高さ25mを超えるわが国有数の山門である。
 源平の戦いは深く民衆の心をとらえた。勝った源氏より敗れた平氏への哀惜の情が強く、平氏滅亡を描いた『平家物語』は、盲目の琵琶法師の弾き語りで広く全国で親しまれた。貴族社会では和歌がいっそう洗練され、藤原定家(1162- 1241)らによって新感覚の『新古今和歌集』が編纂された。
 武士を捨てて諸国を遍歴した西行(1118 – 1190)や、『金塊和歌集』を編んだ3代将軍・源実朝(1192―1219)など、異色の歌人が輩出している。随筆文学では鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』が騒乱の世の無常をつづった。絵画では「平治物語絵巻」など絵巻物や似絵(にせえ)とよばれた写実的な肖像画に優れた作品が多い。

金閣寺-舎利殿(Kakidai)

 室町時代の文化は、3代将軍足利義満が、1397年に京都の北山に金閣を建て、8代将軍足利義政は、京都の東山に1482年に銀閣を建てた。室町時代の文化は、この2つの山荘が象徴する2つの時期に分けられる。
 金箔が光り輝く金閣は3層の異なる建築様式で、1層が寝殿造り、2層が書院造り、3層が仏堂様式で、それぞれ公家文化、武家文化、仏教文化をあらわし、王朝文化から武家文化への過渡期を象徴している。
 芸能では、観阿弥・世阿弥父子が大衆芸能であった猿楽や田楽を能として大成させた。能の合間に演じられた狂言は民衆の生活を良くあらわしていた。能・ 狂言は武家屋敷や寺社に招かれて演じられ、この時代を代表する芸能になった。
 この頃の文化を北山文化という。将軍義政の建てた銀閣では、王朝風の寝殿造りが姿を消し、1層が書院造、2層が禅宗風の仏殿と、渋い武家風に変わった。武家の屋敷の中には、畳と襖(ふすま)、障子を取り入れた書院造や書画を鑑賞する床の間が生まれた。
 義政が保護した簡素な文化は、のちの時代の質素で落ち着いた侘び寂びの文化につながった。茶の湯には集団による賑やかな茶会のほか、茶室でひっそりと楽しむ侘び茶があった。
 禅宗の寺院では、枯山水と呼ばれる簡素な庭園が好まれた。龍安寺の石庭、苔寺とよばれた西芳寺の庭がその典型である。絵画では雪舟が水墨画を確立し、宗祇らが和歌を歌いつぐ連歌の絶頂期をむかえた。これらを東山文化とよぶ。
 戦乱によって多くの公家や僧が地方に逃れたため、京都の文化が地方に伝えられた。同時に下野国(栃木県足利市)には足利学校が創られ、学問の中心となった。各地の寺院では武家や庶民の子供の教育が始まり、識字率がたかまりによって御伽草子(おとぎぞうし)と呼ばれる絵本がよく読まれ、浦島太郎や一寸法師などの昔話が親しまれた。
 交通や産業も発達し、庶民の生活は豊かになった。中国から持ち込んだ茶を飲む習慣が庶民の間に広がった。味噌や醤油もこの時代に普及した。住まいは、それまで寝床としてつかわれた床の間が、書や絵を飾る場所になった。年中行事として盆踊りなどが始ったのもこの時代とされる。
 鎌倉時代に生まれた浄土宗、日蓮宗、禅宗は、戦乱の無常観に打ちひしがれている庶民に広がり、のちにはそれぞれの宗派が教団として拡大した。

第 1 節 戦国時代から天下統一へ

 戦国大名の出現は、守護大名の力がおとろえ、下克上の風潮に乗って、実力のある家臣や地侍は、自らの力で守護大名を倒し、一国を支配するようになった。こうした新しい型の領主を戦国大名と言う。
 既に、南北朝の動乱の頃より、農村社会では、権威の衰えた幕府や守護の支配を離れ、農民の自治組織「惣」によって運営されている自立的な村「惣村」が形成された。いくつかの惣村が共通の利益のために一揆を結んだり、地元の武士「国人」を中心に結束して、自分たちの主張を通すこともしばしばあった。
 惣村は、境界争いなどを調停し、外敵から守ってくれる、より強い実力者を求めた。戦国大名という新しい統治者は、このような要求に応える形で登場してきた。

武田信玄(日本語: 不明、English: Unknown/Public domain)

 戦国大名は、領国内の武士を家来に組み入れ強力な家臣団を作り、他の大名との戦いに備えた。主君への反逆や謀反は機敏な行動として評価されることもあり、必ずしも不名誉とはされなかった。戦国大名の出自はさまざまで、甲斐の武田信玄は守護大名、越後の上杉謙信は守護代、安芸の毛利元就は国人から戦国大名となった。
 戦国大名が、従来の幕府を背景にした守護大名と異なる点は、領国の経営の実力を備えることが求められたことである。実力が無ければ、家臣や領民に見限られ、別の実力者に首がすげかえられることもあった。
 戦国大名は、守りのかたい山や丘に山城を築き、一の丸、二の丸、三の丸と幾重にも守りを固め、濠をめぐらしして合戦に備えた。ふもとの平地に屋敷を構え、その周囲に家臣団や商工業者を住まわせて、城下町とした。城下町は、領国の政治、経済、文化の中心になった。
 また、戦国大名は、領国を豊かにするために、大規模な治水工事をし、耕地を広げて農業を盛んにした。鉱山の開発や商工業の保護、交通制度の整備などにも力をそそいだ。家臣の取りしまりや、領民の保護と支配のために、掟書などの名称で呼ばれる独自の法律「分国法」を定めた例も少なくない。
 戦国大名の領国支配が強まるにつれ、荘園は衰退していった。このようにして、各地で実力を養った戦国大名が勢力をのばし、互いに激しく争った約 100年間を戦国時代という。

 中世ヨーロッパのキリスト教世界では、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会が絶大な権力をもっていた。他方、イスラム教のアラビア人も勢力を広げ、8世紀以降は、西アジアから地中海を経て、イベリア半島までを支配した。
 この時代、イスラム教諸国は学問や芸術においても、軍事力においても、キリスト教諸国よりはるかに先進国であった。しかし、イベリア半島では15 世紀末に、キリスト教徒がイスラム勢力を追い出して、スペインとポルトガルが支配するキリスト教圏に戻った。
 16世紀初め、ドイツのルターらがカトリック教会の腐敗を批判し、教会に頼らずに個人が聖書を通して神と直接向かい合うべきだとする改革運動をおこした。これを宗教改革という。彼らはプロテスタントと呼ばれた。その勃興に危機感をもったカトリック教会の内部からも改革運動がおこり、イエズス会が創立されるなど海外への布教に積極的に乗り出した。
 15世紀末から、ポルトガルとスペインは国をあげて海外進出をはかった。オスマン帝国などイスラム勢力が地中海の制海権をにぎっていたので、東方への物資の輸入ルートがはばまれていた。当時のヨーロッパでは肉料理の必需品は胡椒など香辛料が必要だった。
 それらをアラビア人の商人から購入しなければならなかったが、「金1g=胡椒1g」といわれるほど高価だった。領国は胡椒を直接買い付けるため、主産地インドへの新たなルートを求めた。
 ポルトガルはアフリカの西海岸を南下してインドに向かう航路の発見に乗りだした。これに対してスペインはイタリア人のコロンブスを派遣して、大西洋をどこまでも西へと向かわせた。このようにしてヨーロッパ人がアジアの植民地を求める大航海時代が始まった。
 1492年、コロンブスは西インド諸島に到達した。ヨーロッパ人によるアメリカの「発見」である。彼はそこをインドと信じ込んだため、北米大陸の先住民はインディアンとよばれた。
 2年後の1494年、ローマ教皇は大西洋を東西に分け、東半球で発見されるもの全てポルトガル王に属し、西半球で発見されるものは全てスペイン王に属すると取り決めた。これをトルデシリャス条約という。ポルトガルが派遣したバスコ・ダ・ガマは1498年、アフリカ南端の喜望峰を経てアフリカ東岸を北上し、インドに到達する新航路を発見した。
 1543年、シャム(現在のタイ)からポルトガル人を乗せた中国船が、暴風雨にあって、種子島(鹿児島県)に漂着した。彼らは日本に来た最初のヨーロッパ人だった。領主の種子島氏はポルトガル商人から鉄砲2挺を高額で買取り、刀鍛冶に研究を命じた。
 種子島で鉄砲生産が研究され、やがて堺(大阪府)など各地の刀鍛冶が生産を始めると、その高い技術力によって数年の間に量産を始めた。鉄砲生産は急速に普及し、戦国大名たちが新兵器として盛んに求めた。日本はたちまち世界一の鉄砲生産国となった。さらに戦国大名が鉄砲を採用したことは戦闘の方法を大きく変え、全国統一を早める結果となった。
 鉄砲伝来の6年後の1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、キリスト教の布教を開始した。その後もポルトガル人の商人と共にやってきた宣教師たちは熱心に布教し、キリスト教は西日本を中心に急速に広がった。宣教師は孤児院を作るなどして、人々の心をとらえた。戦国大名は、ポルトガル商人がもたらす珍しい舶来品を珍重した。
 15世紀末にはスペインの武装商人もアジアにあらわれ、フィリピンを征服して貿易の根拠地とした。彼らは日本では南蛮人と呼ばれ、日本に火薬・ 時計・ガラス製品などヨーロッパの品々や、中国産の生糸や絹織物をもたらした。
 彼らは世界有数の銀の産出国だった日本から銀を手に入れ、貨幣に鋳直してアジア各地との交易に用いた。これを南蛮貿易という。その後、日本人も南蛮貿易に乗り出し、東南アジアの各国に定住し、日本町をつくった。
 南蛮貿易の利益に着目した西日本の大名たちの中には、キリスト教を保護し、自ら洗礼を受けるものもあらわれた。これをキリシタン大名という。最初のキリシタン大名となった九州の大村氏は、長崎を開港してイエズス会に寄進した。天然の良港だった長崎は、南蛮貿易と布教の拠点となって、急速に発展し、その後もヨーロッパとの窓口となった。

1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画。タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。京都大学図書館蔵。 右上・伊東、右下・千々石、左上・中浦、左下・原。中央・メスキータ神父(Wikimedia Commons)

 イエズス会はキリシタン大名の保護を受けて長崎・ 山口・ 京都などに教会(南蛮寺)を建て、キリスト教は更に広がった。1582年、3人のキリシタン大名が4人の少年使節をローマ教皇のもとに送った(天正遣欧少年使節)。
 少年たちは3年かけてローマに着き、教皇に謁見して大歓迎を受けた。それによって、ヨーロッパでは日本に対する関心が高まった。

 

 

 

 


《補講》 一揆と合議の伝統

三河一向一揆(Yoshitoshi/Public domain)

【一揆の始まり】一揆とは、「揆を一にする(気持ちを一つにする)」という意味で、人々が共通の目的のために寄合を持ち、立場の違いを超えて、平等な資格で一致団結することをあらわす言葉です。
 平安時代の末、寺院の僧兵が訴訟などの共同の行動をとる時、団結を神仏に誓う為に、行動の趣旨を書いた紙を焼いて水に混ぜ、全員で回し飲みしました。これが一揆の始まりと言われます。
【鎌倉幕府と一揆】鎌倉時代、執権となった北条泰時は、1225年、評定会議を設置し、執権をはじめ有力御家人や幕府の役人の代表によって、ものごとを決定しようとしました。1232年、御成敗式目を完成させ、評定会議は、この法律に基づいて裁判をおこなうことになりました。
 心得としては「会議で訴訟について議論をするときは、訴えた人や訴えられた人が親しいとか、好きや嫌いで判断してはならない。また、会議では、周囲の人に遠慮したり、地位の高い人を恐れたりせず、ただ道理だけにもとづいて、発言するべきである。会議の決定が結果として正しいものであろうと間違ったものであろうと、その決定は一同、全員の責任である」
 評定会議では、全員がこの文書に署名しました。これは評定衆が一致団結して公平な裁判を行うことを神仏に誓ったもので、まさしく一揆の結成でした。一揆とはこのように、正しい決定をめざしてメンバーの全員が徹底的に議論しょうととする「合議」の精神を含んだものでした。
【広がる一揆と農村の自立】応仁の乱によって幕府や守護大名の力がおとろえてくると、村の農民は、一揆を結成して、行動方針を合議し、武装して実力で自分たちの村を守ったり、支配層に対して要求を通そうとするようになりました。
 1428年、近江の国(滋賀県)に始まった農民の一揆は徳政(借金の帳消し)を要求し、京都の高利貸を襲撃しました。このような農民などの民衆が結束して、借金の帳消しを求める一揆を徳政一揆と呼びます。「合議」と「満場一致」を特徴とする一揆は、農民に限らず、武士・僧侶から職人に至るまでの全ての階層において、人々が社会的に行動する時の集団のあり方となりました。


《資料》 主な戦国大名と分国法

 相模(神奈川県)の北条氏、越前(福井県)の朝倉氏、駿河(静岡県)から三河(愛知県東部)の今川氏、越後(新潟県)の上杉氏、甲斐(山梨県)の武田氏、安芸(広島県) をはじめ中国地方一帯から九州、四国まで勢力をおよぼした毛利氏などがある。
 戦国大名は、領国内の領民を治めたが、力による一方的な支配ではなかった。それぞれに分国法なる取り決めを上手に使いこなした。
 例えば、甲斐の武田信玄は、「喧嘩両成敗法」という農村社会で受け継がれていた慣習法を取り入れ、領内の争いを裁定していた。また越前の朝倉氏が作った分国法には、「1年に3度くらいは、有能で正直な者に申し付け、国内を巡視させ、領民の申し出を聞き、そのことを参考にして政治の改革をしていくのがよい」とした。領民の意見が領国の経営には不可欠であり、戦国大名はその声を吸収し、政治に反映させることで、よき統治者になることができた。

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