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芥川龍之介がブラジル移住したら?=知られざる山本喜誉司との関係(上)=同性愛に譬えられる熱烈さ

芥川龍之介の肖像写真(Unknown author / Public domain)

芥川龍之介の肖像写真(Unknown author / Public domain)

 1932年9月下旬、ブラジル史最大の内戦「護憲革命」で連邦軍とサンパウロ州軍はカンピーナスの東山農場を挟んで対峙し、最後の激戦を繰り広げた。日系最古の企業の一つ、東山農場はその時に歴史的舞台となった。
 当時の農場長・山本喜誉司(1892¯1963、東京都出身)は戦後、サンパウロ市400周年(1954年)やサンパウロ日本文化協会(現ブラジル日本文化福祉協会、1955年)創立をはかる過程で、勝ち負け抗争により二分していた日系社会の統合をなしとげ、コロニア史に名を残した。
 しかし、戦前の山本はあまり日系社会と接触がなかった。特に渡伯したばかりの1927年から戦中まで、何をしていたのか知られていない。2012年6月末、山本の二男カルロス坦(たん、88、北京生まれ)にサンパウロ市イビラプエラ公園近くの自宅で、東京時代の文豪・芥川龍之介との関係や護憲革命の話を聞いた。(敬称略、深沢正雪記者、※海外日系人協会機関誌『海外日系人』第70号=2012年10月=に初出、大幅削除・修正して転載)
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山本喜誉司・ブラジル日本文化福祉協会初代会長

山本喜誉司・ブラジル日本文化福祉協会初代会長

 山本喜誉司には芥川龍之介との約80通もの交換書簡があり、生前に「私の死後この書簡類は焼却するように」と家族に言いわたしていたという。
 1954年に日本の有名ジャーナリスト、大宅壮一がサンパウロ市の山本邸をわざわざ訪れて「書簡を見せてほしい」とお願いした時も、すげなく断っていた。坦は「父はいつも芥川と手紙をやり取りしていたが、母は芥川のことを『頭が切れすぎる人だ』と怖がっていた」と思い出す。
 二人の関わりは深い。芥川龍之介の妻は、山本の姉の娘であると同時に、本人同士も東京府立三中時代からの竹馬の友だった。
 月刊『望星』(東海教育研究所、07年8月号)の《特集¯芥川龍之介の「手紙」》(関口安義『芥川龍之介と山本喜誉司の”青春” 「アポロとサテュロス」の交わりを見る』)には驚くべき内容が書かれている。山本と芥川は一高時代、同性愛にも譬えられそうな熱烈な親交があったというのだ。
 同33頁には芥川が送った書簡中には、「僕は君によりて生き候君と共にするを得べくんば死も亦甘かるべしと存候」との、若き文豪ならではの赤裸々な青春の言葉が紹介されている。
 また同特集には、1953年から3年間ほど滞伯して山本喜誉司の仕事を手伝った経験のある、日本在住の挿絵画家・長尾みのるのインタビュー記事も掲載され、山本から直接に聞いた興味深い逸話が明らかにされている。
 そこには、山本が芥川作品にアドバイスしていたとの話もある。「芥川が自分の作品は金にならない、だから自分が死んだあとは遺族がかわいそうだと言っていたというんです。で、どうしたらいいのかというので一緒になって作戦を考えたと言っていた。(中略)山本さんは、ヨーロッパ文学の例などを分析してみると、後世に残る作品には一定の条件みたいなものがあるから、そういう方程式を導き出して、その通りにやればいいんだと言って一緒に考えた、そして芥川は実際にそれをやったというんですね」(25頁)。
 のちに東山農業の経営、日系社会統合でみせた手腕の冴えは、実は文芸面でも発揮されていた。
 山本が1963年に亡くなった時になぜか手紙は焼かれず、日本の研究者の問い合わせを受けた遺族が全書簡を送ったことから、そのような芥川との親密な関係が明らかになった。(つづく)

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