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芥川龍之介がブラジル移住したら?=知られざる山本喜誉司との関係(下)=「衰弱した芥川をここで甦らせる」

自分が描いた山本喜誉司の論文「ウガンダ蜂はかく語りき」(東大博士号)の挿絵を、懐かしそうに指さす坦

自分が描いた山本喜誉司の論文「ウガンダ蜂はかく語りき」(東大博士号)の挿絵を、懐かしそうに指さす坦

 山本は東大農学部を卒業後、三菱に入社し、小岩井農場で牧畜を学び、東山農事社が中国などで展開していた農場を経営するために、家族を北京において赴任した。北米から棉実を輸入して主に綿花改良や栽培に従事し、計7年間も住んだ。
 岩崎家による東山農事株式会社(本社=東京)が東山農場の経営母体だ。岩崎久彌社長(創業者・岩崎弥太郎の長男)は、山本喜誉司に全幅の信頼を置いていた。
 4人の子供のうち長女・瑶子のみ日本生まれで、次の息子2人(幹、坦)は北京生まれ、最後の三男・準が当地生まれという国際的な家族だ。
 1926年10月、山本は東山農場購入のために単身来伯し、翌年には家族を呼び寄せた。まさにこの年に、ブラジルに連れて来て療養させようと山本が念願していた芥川が36歳の若さで服毒自殺した。
 『山本喜誉司評伝』(サンパウロ人文科学研究所、19811年、18頁)には、《山本には芥川をブラジルに呼んで、広々とした自然、清浄な大気、そして激しい熱帯の太陽の下で、衰弱した芥川の肉体と精神を甦らせるが、初めからの夢であった》とある。精神的に病みやすい芥川の性格を知悉していた山本らしい思いだが、残念なことに実現されなかった。

東山農場に作られたテニス場で撮影。1935年ごろ。山本喜誉司(中央後ろ)と3人の息子たち(前列中央が坦)=山本家所蔵

東山農場に作られたテニス場で撮影。1935年ごろ。山本喜誉司(中央後ろ)と3人の息子たち(前列中央が坦)=山本家所蔵

 一日4箱の愛煙家だった山本は肺ガンで1963年7月31日に亡くなった。山本は文協会長であると同時に、当時、茶道裏千家のブラジル支部長でもあった。同年4月から病床に伏していた山本は、死の10日ほど前、副支部長の蜂谷専一を呼び出した。
 病床に伏しているはずの山本は、なぜか着物に着替えて正座をして待っており、《後を君が引きうけてくれれば安心して逝ける》(『山本喜誉司評伝』人文研、81年、62頁)と言ったという。死に際をわきまえた人物だった。
 山本には「芥川にブラジルを題材に何かを書いてほしかった」という気持ちがあったのではないか。もし芥川をブラジルに呼ぶことに成功していたら自殺しなかったかもしれない。
 そして1932年10月、ブラジル史最大の内戦・護憲革命の終盤は、東山農場周辺が最終決戦場となった。もしかしたら、それを目の当りにし、その体験を土台にした世界文学史に残るような傑作を書いていたかもしれない。
 ちなみに、1930年に移民船で渡伯した経験を描いた小説『蒼氓』(石川達三)が、奇しくも1935年の第1回芥川賞に輝いた。移民をテーマにした小説が、自分の名を冠した賞に輝いたことを、最も喜んだのは天国の芥川だったかもしれない。(終わり、深沢正雪記者)

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