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日本移民と邦字紙の絆=日系メディア百年史(14)

戦前、サンパウロ市ファグンデス街にあったころのブラジル時報社屋(この建物は2020年現在も建っている、『在伯同胞活動実況写真帳』」(1938年 竹下写真館)

戦前、サンパウロ市ファグンデス街にあったころのブラジル時報社屋(この建物は2020年現在も建っている、『在伯同胞活動実況写真帳』」(1938年 竹下写真館)

 日本国内からの移民送出圧力が高まる中、米国への流れを途絶されたわけだ。困った日本政府は1924(大正13)年からブラジル渡航の移民全員に船賃支給をするなどの国策を開始したため、この流れは本格的にブラジルに向くようになった。
 日本のラジオ放送は1925年3月に約5000世帯の受信者から始まったが、1928年には50万世帯、1931年には100万世帯とわずかな間に急激に普及していった。
 これは都市や山間の農村などの場所を問わず、経済階層も身分も超えて平等に無差別に影響を与える最初の媒体「国民メディア」であり、これ以降、同じ時代を生きているという同時性の意識が養われていった。
 移民収容所のあった神戸港を抱える関西の大阪中央放送局は、1933(昭和8)年7月25日からラジオ番組「夏季ブラジル語講座」を週3回、7週間にわたって放送した。ブラジル行き希望者向けのポルトガル語ラジオ講座は全国でこれが初めてだった。
 このような経緯により1926年から1935年までが日本移民の流入全盛期となった。この間だけで実に13万人、戦後をあわせた全移民25万人の半分以上が流入した〝移民の団塊世代〟を形成した。昭和恐慌中の1933年、1934年は特に年間2万人を超えるピークを記録した。この世代が日本から持ってきた軍国教育、日本人観、皇室観、思考傾向が、その後の同胞社会のあらゆる思想風潮を決定付けたといって過言ではない。
 『四十年史』に「大正十三年(1924年)から激増した日本移民は農村出が少なく、思想的には初期移民よりもはるかに進歩的であり、教育の程度も全般的に高くなっていた」(303頁)とあるように読者層の志向を大きく変えた。
 1924年以来、「大量入国が移民入国制限法が出るまで約十年間つづいたが、これら新移民にとっては「ブラジル時報」は興味のない時代おくれの新聞であった。したがってハツラツたる「日伯新聞」の購読者は年毎に増加して、後には邦字紙中最大の日刊紙となった」(『四十年史』303頁)という影響を与えた。
 笠戸丸以降の初期の日本移民はモジアナ線のコーヒー大農園に配耕されたが、その後、受け入れ先がノロエステ方面に変わっていた。1914年にボリビア国境まで開通したノロエステ線鉄道は、1910年代から1930年代までの間、外国移民の最大の受け入れ先となった。
 1925年から始まる日本移民の大量流入は急激な読者膨脹を意味し、1930年代が邦字メディアの戦前の全盛期となる。邦字紙は拡大・多様化し、雑誌も生まれて日本語メディアの選択肢が広がった。
 この時代の同胞社会の集団意識は、人の一生に例えれば、ヨチヨチ歩きをはじめたばかりの「幼年期」のような時代だった。各地に日本人会が結成され、さらに中央日本人会という全伯組織にまで発展するなど、大量移住に後押しされて移民社会には組織化の波が起った。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)

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